戦意向上のために始まった「気象記念日」 あの「えひめ丸」も表彰
明治8年(1875年)6月1日、内務省の地理寮量地課に気象掛(通称「東京気象台」、気象庁の前身)ができたことを記念して、6月1日は「気象記念日」と制定されています。
東京気象台創立の4日後、明治8年6月5日には、地上気象観測が行われるようになりました。これが東京での気象観測の始まりです。6月1日から始まったのは空中電気と地震の観測のみです。
内務省地理寮量地課があったのは、東京府第2大区第4小区溜池葵町(赤坂葵町)です。現在ではホテルオークラが建っている港区虎ノ門2丁目と、大都市の真ん中にありますが、当時8000坪を越える広大な敷地内は山坂が多く、樹木が鬱蒼とし、タヌキ(イヌ科の動物)やアナグマ(キツネ科の動物)が生息していました。
当時の様子を、大正4年4月に開催された中村精男中央気象台長在職20年及び還暦祝賀会の席上で、馬場信倫がつぎのように述べています。「狸が、気温や日温寒暖計を藪の中に隠したり、観測する場所の前に横切ったりしていた…」
6月5日から気象観測
東京気象台のできた4日後の明治8年6月5日からは、気候観測の目的で地上気象観測が始まっています。
毎日3回(東京地方時で午前9時30分、午後3時30分、午後9時30分)の気候観測が御雇い外人のジョイネル(H.B.Joyner)によって行われ、最初の観測値(6月5日9時30分)は、気温19.5度、露点温度13.1度、湿度67%、日雨量0.5ミリメートルです。
地上気象観測が6月1日からでないのは、1年を73半旬に分けて統計すると、6月1日以降の最初の区切りが、32半旬が始まる6月5日からであるためと考えられています。
6月1日から4日までは予備観測が行われていたかも知れませんが、後世に資料は残されていません。
その後、7月1日からは気圧の観測が、9月3日からは雲の観測が、翌9年1月1日からは風の観測が加わるなど、観測要素が増えています。
年統計など、きちんとまとめられているのは、翌9年1月1日からです。
このため、10年後に内務省地理局東京気象台で作られた「気象観測法」の序文で、東京気象台長の荒井郁之助は、「抑々本台ノ創立ハ明治八年六月ニアリト雖事業ノ諸ニ就キタルハ同九年一月ニアリ」と述べています。
気象記念日
明治8年(1875年)6月1日に、内務省の地理寮量地課に気象掛(通称「東京気象台」、気象庁の前身)ができたことから、気象記念日は6月1日となっています(気象観測が始まった日ではありません。
しかし、「気象記念日」が制定されたのは、68年後の昭和17年(1942年)5月の「気象記念日制定に関する通牒」からで、中央気象台の発行の測候時報には、次のような中央気象台長・藤原咲平の訓話が載っています。
太平洋戦争中の多くの犠牲者
戦争と気象は密接な関係があります。このため、気象台職員のみならず、陸軍も海軍も多くの軍人が気象業務に従事していました。
そして、敵基地の近くへ通信機などを携帯するため、武器なしで接近して気象観測を行って通報し、味方の攻撃を待つ作戦などをしています。味方の攻撃後は、厳重な探索がおこなわれますが、そこを丸腰で逃げる等の行動は、攻撃隊より危険でした。
このため、気象業務のために多くの犠牲者を出しています。
消耗品である気象業務従事者を、1年間に1万人を育成しないと間に合わないなどと言われていた時代です。
気象記念日の制定は、戦意高揚の一環としてスタートしました。
あの「えひめ丸」も気象記念日に表彰
船舶による気象観測は、気象庁にとって日々の天気予報や警報などの情報提供に非常に役だつと同時に、観測結果の蓄積から、地球温暖化等、気候変動の監視・研究にも利用できます。
船舶にとって、気象庁が精度の高い海上予報・警報を発表することにより、より安全で経済的な航海をすることができますので、船舶と気象庁はお互いにメリットがある互恵関係にあります。
とはいえ、船舶を運行しながらの観測・通報は労苦を伴いますので、毎年6月1日の気象記念日には、海上気象または海洋観測の通報を励行している船舶に対し、国土交通大臣あるいは気象庁長官による表彰が行われ、日頃の観測や通報の励行に敬意を表しています。
平成12年6月1日の気象記念日では、愛媛県立宇和島水産高等学校の4代目水産実習船「えひめ丸」が、日頃の観測や通報の励行に対して気象庁長官表彰を受けています。
気象庁長官表彰の7ヶ月後の平成13年2月10日、悲劇が「えひめ丸」を襲います。
遠洋航海実習中にハワイ沖で米海軍の原子力潜水艦「グリーンビル」に衝突されて沈没し、乗船していた35名のうち、8名が死亡、1名が行方不明となりました。
「えひめ丸」は、事故直前まで、これまでと同様に気象庁へ海上気象観測結果を通報していましたが、他の船舶があまり航行しない海域での貴重な観測であったため、気象庁が作成し、永久保存としているアジア太平洋天気図には、沈没した[えひめ丸]の観測結果がいくつも残されています。
つまり、宇和島水産高校の「えひめ丸」の海上気象観測は永遠に残っています(図1、図2)。
図2は、図1の時刻における船舶の観測表の一部ですが、この中に、JPQI(4代目「えひめ丸」)という船からの報告が記されています。
つまり、平成13年1月17日15時に、JPQI(えひめ丸)は、北緯19.4度、東経172.3度にあり、気圧は1014.0ヘクトパスカル、風向は東、風速は毎秒7.2メートル、気温と露点温度は不明(報告なし)、視程は4キロメートル、現在の天気は視界内に降水現象があり海面に達しているが5キロメートル以上離れている、過去6時間前からの天気は雨、雲量は10分の9以上だが雲のない部分(隙間)があるという観測をしたということがこの天気図上に残されているのです。
この頃の「えひめ丸」はというと、1日に経度にして5度位の早さ(時速約20キロメートル)で東南東へ進んでおり、1月19日には日付け変更線を超えて西経に入って実習を続け、2月10日に運命のハワイ沖に達しています。
どのような状況下になっても継続して自然現象を観測し、その観測結果を後世の人々に財産として残してきた142年の歴史を記念する気象記念日、6月1日がやってきます。
図の出典:饒村曜(2008)、永遠に残る「えひめ丸」の海上気象観測、海の気象vol.54.No.2、海洋気象学会。