東京の気象観測事始め タヌキの出る場所から江戸城天守台跡へ
東京での気象観測は、明治8年(1875年)6月1日、内務省の地理寮量地課に気象掛(通称「東京気象台」、気象庁の前身)ができ、東京府第2大区第4小区溜池葵町(赤坂葵町)で気象(空中電気)と地震の観測を開始したことから始まっています。
溜池葵町での観測
東京気象台が誕生した溜池葵町は、上野厩橋(現在の群馬県前橋)17万国の松平大和守が明治5年に明治政府に返上した土地です。
松平大和守の家系は、徳川家康の子で結城家に養子にいった結城秀康の4男、直基を開祖としています。寛政3年(1626年)に結城を改めて松平と称し、大和守に任ぜられ、延宝2年(1674年)に4代将軍徳川家綱より葵町の藩邸を賜っています。徳川の親藩として越前勝山を振り出しに各地を転封し、文久3年(1863年)からは上野厩橋の藩主でした。
溜池葵町の土地に、明治6年9月に工部省測量司が置かれましたが、測量司は、明治7年1月に新設された内務省に移管され、そこに東京気象台ができました(図1)。
タヌキやアナグマが出没するので狸穴(まみあな)
測量司がある8000坪を越える広大な敷地は、大和屋敷と呼ばれ、廷内に山坂が多く、樹木が鬱蒼とし、タヌキ(イヌ科の動物)やアナグマ(キツネ科の動物)が生息していました。
当時の様子を、大正4年4月に開催された中村精男中央気象台長在職20年及び還暦祝賀会の席上で、馬場信倫がつぎのように述べています。「狸が、気温や日温寒暖計を藪の中に隠したり、観測する場所の前に横切ったりしていた…」
タヌキやアナグマが生息している場所で東京の気象観測が始まりましたが、その場所は、ホテルオオクラが建っている港区虎ノ門2丁目と、大都市の真ん中にあり、当時の面影は全くありません。
ただ、近くに「麻布狸穴(まみあな)町」という地名が残っています。住居表示変更前は、もっと広い範囲に狸穴という地名がありました。
6月5日から気象観測
東京気象台のできた4日後の明治8年6月5日からは、気候観測の目的で地上気象観測が始まっています。
毎日3回(東京地方時で午前9時30分、午後3時30分、午後9時30分)の気候観測が御雇い外人のジョイネル(H.B.Joyner)によって行われ、最初の観測値(6月5日9時30分)は、気温19.5度、露点温度13.1度、湿度67%、日雨量0.5ミリメートルです。
観測機器はほとんどイギリス製でしたが、地震計だけはイタリア製でした。地震のないイギリスには適当な地震計がなかったためです。
気候観測が6月1日からでないのは、1年を73半旬に分けて統計すると、6月1日以降の最初の区切りが、32半旬が始まる6月5日からであるためと考えられています。
6月1日から4日までは予備観測が行われていたかも知れませんが、後世に資料は残されていません。
その後、7月1日からは気圧の観測が、9月3日からは雲の観測が、翌9年1月1日からは風の観測が加わるなど、観測要素が増えています。
西南戦争の余波で皇居内へ
東京気象台の大和屋敷の時代は長くは続きませんでした。
西南戦争(明治10年2月~9月)の余波が及んできたからです。
西南戦争後、新政府に忠実な西南の役の功労者を華族に列し、主だった実業家には大名屋敷を与えて新政府財政の強力な後ろ盾にしようとする動きがありました。
このため、大和屋敷は、明治11年(日時や価格は不明)に、西南戦争で政府の武器調達に大きく寄与した大倉喜八郎に払い下げられています。のちに、大倉喜八郎は、その場所にホテルオオクラを建てます。
古地図を並べてみると、松平大和守の藩邸、量地課の敷地、ホテルオオクラの敷地の形がほとんど変わっていないことがわかります。
大和屋敷の売却によって東京気象台は移転を余儀なくされ、あちこちに移転場所を探した結果、皇居の旧本丸の中へ移転しました。
皇居の旧本丸の中に移転
東京気象台は、地盤強固、見晴らしの良さ、鉄路と道路から遠いので地盤に動揺をきたさないなどの理由から、皇居の旧本丸の中に移転が最終候補になりました。
明治13年6月11日に内務卿松方正義から太政大臣三条実美あてに「測量台位置之儀伺」がだされていますが、この伺いには、「無用を転じて有用とできる」という記述があります。
明治初期の感覚では、皇居内の一角は無用の土地と思っていたことを伺わせます。
この伺いが裁可され、明治14年12月22日に東京気象台は皇居内の旧本丸に移転しています(図2)
暴風警報の発表
皇居内の旧本丸移転の10日後、明治15年1月には東京気象台にクニッピング(E.Knipping)が雇われ、天気図を作って暴風警報を発表する業務開始の準備が始まります。
新しい業務が新しい場所で始まったのです。
明治16年2月26日、気象電報を集めて天気予報を作り始め、3月1日から印刷天気図を作り初めています。最初に暴風警報を発表したのは5月26日でした。
明治16年という年は、11月28日には大倉喜八郎によって鹿鳴館が作られているなど、井上馨外務卿らの明治政府は、制度、文物、習俗を欧風化して欧米諸国に日本の文明開化を認めさせ、条約改正を有利にしようとした鹿鳴館時代の幕明けの年でもあります。
江戸城天守台跡で風の観測
明治16年に作成された東京の古地図を見ると、「測候所」という文字があり、建物が描かれているのは、江戸城天守台跡のところです(図3)。
つまり、暴風警報の発表業務が始まった頃の東京での観測は、江戸城天守台跡のところで行われていました。
当時の気象関係者の勉強会が発行した機関誌「快晴」には、天守台の上に設置された風速計室の写真が掲載されています(図4)。
なお、江戸城天守は、明暦3年(1657年)の明暦の大火(別名、振袖火事)で消失以降、再建されていなかったものです。ここに、東京気象台によって、226年ぶりに風速計室が作られたのです。
その後の東京気象台
東京気象台は発展して中央気象台となり、大正12年(1923年)1月に麹町区元衛町(KKRホテル東京付近)に移転しています。竹橋を渡って皇居の外に出たのですが、その約8か月後の9月1日、関東大震災が起きています。
その後、中央気象台は発展して気象庁となり、昭和39年(1964年)に千代田区大手町に移転しています。
そして、大手町地区の再開発に伴い、平成19年(2007年)11月より風と日照の観測が、平成26年12月から気象観測を行う露場が、ともに北の丸公園内へと移転しています。
つまり、東京の観測地点は、皇居の南側、皇居の中、皇居の北側と移転をしていますが、いずれにしても、自然環境が残っている皇居付近です。
気候の長期変動をみる観測には適していますが、都市化が進んだために、東京に住む多くの人の感じる気温より低い気温を観測しているなど、大都会に生む人の体感とは少しずれているとの指摘もあります。