【パリ】大注目の展覧会 ルイ・ヴィトン財団「モロゾフ・コレクション」開幕
9月22日からフォンダシオン・ルイ・ヴィトンで始まった『モロゾフ・コレクション ー 近代美術のアイコン』展は、この秋パリでもっとも話題になっている展覧会のひとつです。
「モロゾフ・コレクション」とは、繊維業で財をなしたロシアのモロゾフ兄弟が19世紀終わりから20世紀初頭にかけて収集した近代西洋美術コレクション。マネ、ロダン、モネ、ピサロ、ロートレック、ルノワール、シスレー、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ、ボナール、ドニ、マイヨール、マティス、ピカソら、フランスを拠点に活躍したビッグネームと、ロシアの前衛アーティストたちの作品から成るもので、世界有数の質と量を誇っています。コレクションの総数は600数十点というものですが、今回の展覧会では、そのうちの200点あまりがロシアからパリにやってきました。
同時代のロシアの美術収集家セルゲイ・シチューキンのコレクションが、はやりフォンダシオン・ルイ・ヴィトンで2016年から2017年にかけて展示されましたが、会期中の入場者数はなんと130万人。今回の「モロゾフ・コレクション」は、その大記録を打ち立てた「シチューキン・コレクション」と双璧を成すものです。「近代美術のアイコン」という副題も、手掛けたキューレーターも同じで、「シチューキン」の大成功に気を良くしてというよりも、むしろこのふたつは、どちらかの存在抜きには語れず、並び立つことで完結できるもの。コロナ禍による度重なる延期を経て、いよいよ待ちに待った開幕となりました。
さて、そんな歴史的ともいえる展覧会を一足先に訪ねることができましたので、その模様をお伝えします。
帝政ロシア末期の華
展覧会はまず、「La Vague(波)」という題の彫刻から始まります。これは、ロシア人女性としてはじめてモスクワの美術学校に入学し、パリでロダンの薫陶をうけた彫刻家、アンナ・ゴルブキナの作品で、モスクワ芸術劇場の門を飾っていたものの復刻版。劇場は、モロゾフ兄弟の従兄弟が大株主で、彫刻もその従兄弟によって注文されました。「波」が製作されたのは1902−03年。ロシア帝国が終焉に近づき、社会や文化の様相がゆらぎはじめ、次なる時代の到来を示唆しているようにも思えます。
兄弟のアートへのパッション
ミカイルとイワンは、それぞれ1870年と1871年生まれの兄弟です。モロゾフ家はもともと農奴の出身ながら、兄弟が生まれるころには繊維産業で富を築いたブルジョワ一家になっていました。けれども、彼らが10代になってほどなく父親が他界。すると、未亡人となった母親が兄弟が成人するまで家業を取り仕切ります。彼女は同時に文化人たちを邸宅に招いて芸術サロンを作り、慈善活動も行った人。兄弟はそうした一流の文化的な空気のなかで育ちました。
子供の頃に絵の手ほどきも受けていた兄弟は、20代初めからそれぞれ絵画の購入を始めます。最初は同時代のロシア絵画でしたが、兄ミカイルはパリに通うようになり、1899年のコローとロダンの作品を皮切りに、フランス美術のコレクションを充実させてゆきます。
ところが、1903年、ミカイルは33歳で急死。ゴーギャン、ゴッホ、ムンク作品まで含んだ彼のフランス美術コレクションはこのとき39点を数え、ロシア美術は44点。それらは1910年に彼の未亡人によって、トレチャコフ美術館に寄贈されます。
いっぽう、弟イワンは1895年にスイスで学業を修めたあと家業を引き継いでいて、彼の代で資産を3倍にするという経営手腕を発揮していましたが、兄の死後はその軌跡をたどるようにパリを頻繁に訪れ、画廊やサロンの上顧客になってゆきます。兄の没年に購入したシスレー作品に始まった彼のフランス美術コレクションは240点。20歳から始めたロシアコレクションは430点という膨大なものになりました。
一時代を築いた収集家
モロゾフ家は代々、篤志家としての系譜があり、イワンは工場労働者のために劇場を作ったりもしています。また、母がそうだったように、兄弟も自邸を文化サロンとし、パリで購入した絵をモスクワに持ち帰ると、皆に披露していたといいます。彼らのサロンが同時代の、また後のロシア人アーティストたちに大いに影響を与えたことは、今回の展覧会で紹介されている数々のロシア作品からもみてとれます。
展覧会の見どころは、いわゆるビッグネームたちの広範な作品はもちろんですが、イワンが自邸の大階段、音楽堂を飾るために特別注文した絵が、往時をしのばせるように再構築されていることです。
悲運のコレクション
これまでご紹介した作品が、現在はモスクワとサンクトペテルブルグの美術館の所蔵になっていることにお気づきになった方も多いと思います。ミカイルとイワン兄弟が心血を注いだ「モロゾフ・コレクション」は、度重なる革命と戦争という激動の波に呑まれてゆくことになるのです。
1917年、革命によってロマノフ王朝が終焉を迎え、ソビエト政権が樹立すると、翌18年、イワンのコレクションに国有化の勅令が下ります。600点以上の作品が一挙に新政権に召し上げられてしまうのです。この大変革は美術品だけでなく、モロゾフ家が所有していた工場、邸宅にも及びました。
イワンの家族は国外に預けてあった資金によって生活に困窮することはなかったようですが、境遇の激変、一気に地に堕とされた失望は想像にかたくありません。家族はときに騒乱のさなかのモスクワを離れ、非合法でフィンランド国境で夏を過ごしたりしますが、1921年7月、イワンは滞在先のドイツ・カールスバードで、心臓発作のために急死してしまいます。49歳という若さでした。
彼のコレクションもまた流転の運命を辿ります。トレチャコフ美術館に移されたり、共産主義政権とは相容れない芸術というレッテルを貼られて壁から外されたりということもあったようです。
1941年に大祖国戦争(対独戦争)が始まると、コレクションはモスクワからノヴォシビルスクに疎開。そして48年、サンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館とモスクワのプーシキン美術館に分散して所蔵されることになるのです。
収集家の子孫たち
展覧会が始まり、フランスのさまざまなメディアに関連記事が出ていますが、週刊誌『Paris Match(パリ・マッチ)』には、イワンのひ孫にあたる男性の記事が掲載されていて、感慨深いものがありました。国を追われるようにしてフランスにやってきたイワンの子孫は、まるで身を隠すようにしながら富豪の栄華とも芸術とも無縁の暮らしを送ってきたようです。ひ孫の男性は、現在フランス・ナントの郊外でごくごく慎ましいリタイヤ生活をしていて、健康上の理由からこの展覧会にはまだ足を運べずにいるのだそうです。
けれども、記者発表の日、会場にはモロゾフと双璧をなす収集家、シチューキンの子孫にあたるアンドレ=マーク・ドゥロック=フルコーさんの姿がありました。
マティス作品の数々を鑑賞できる展示室で、ドゥロック=フルコーさんはこんなふうに話してくれました。
「シチューキンはイワンにマティスを紹介したりしていますが、ふたりは収集家として良きライバルだったかもしれません。同じアーティストの作品を収集していても、コレクションはそれぞれの性格、人生が反映されたまったく違うものになっています。
たとえば、ピカソの作品をシチューキンは50点持っていましたが、イワンは3点と少ない。けれども、その3点はいずれも、ピカソの異なる時代の代表作ともいえるもので、非常に慎重に絵を選んでいたことがわかります。この会場ではその3点ともが観られる。素晴らしいことです。」
100年前のアルノーとピノー?
たまたまそこに居合わせたフランス人は、「シチューキンとモロゾフはまるで現代のフランソワ・ピノーとベルナール・アルノーのようではないだろうか」と、ドゥロック=フルコーさんに話しかけていましたが、なるほど言い得て妙。
ともに繊維業で巨万の富を築き、一大美術コレクションを成したロシア人ふたりは、現代フランスの富豪にして、国家レベルのアートプロジェクトを展開する双璧とオーバーラップするようでもあります。
今回の展覧会を実現したのはまさに、アルノー氏その人であり、対するピノー氏は、自身のコレクションをもとにブルス・ドゥ・コメルスという新美術館を作るという具合に、この双璧の存在によって、昨今のパリのアートシーンが輝きを増していることはたしかです。
見どころが尽きない展覧会ですが、個人的には第7展示室がことに印象的でした。
壁にひとつだけ架けられた作品は、ゴッホが南仏の精神科施設で自分自身と葛藤していたときのもの。ロンドンの刑務所の囚人らが描かれた版画にインスピレーションを受けて絵筆をとり、真ん中でこちらを向いている囚人を自画像として表現しているのです。
昨年の夏、ゴッホの軌跡を巡る旅をここで数回にわたってご紹介しましたが、そんなわたしにとっては、サン・レミ・ド・プロヴァンスの精神科施設の鉄格子のかかった窓の記憶も新しく、この絵を前にすると、なにかこみ上げるような気持ちになりました。
奇しくもイワンの没後100年という年に叶ったこの展覧会。選びぬかれた近代美術200点それぞれに深みがあり、動乱の時代を経て再びそれらが集結していることにひとかたならぬ意義がある。まるで大河のような圧倒的な迫力を感じる、そんな展覧会です。
La Collection MOROZOV Icônes de l'Art Moderne
Fondation Louis Vuitton
『モロゾフ・コレクション ー 近代美術のアイコン』展
フォンダシオン・ルイ・ヴィトン
2021年9月22日〜2022年2月22日