ベラルーシはなぜロシアに協力的? 経緯や狙いは…知っておきたい基礎知識5選
ロシアとウクライナの停戦に向けた協議の第一ラウンドは、ベラルーシのホメリで行われた。また、アメリカ政府は「ベラルーシもウクライナに部隊を派遣する可能性がある」と報告している。ウクライナ侵攻でしばしば名前のあがるベラルーシとはどんな国で、なぜロシアに協力的なのか。これに関して以下では5点に絞って紹介しよう。
(1)「侵攻にかかわっていない」
ベラルーシはロシアの西隣で、ウクライナの北隣に位置する。この国は、ウクライナ侵攻が始まる前からロシアへの協力が目立ってきた。
例えば、昨年末から10万を超えるロシア軍がウクライナを取り囲むように展開していたが、そのうち約3万はベラルーシにいた。ウクライナでの緊張が高まっていた2月、ロシア軍はベラルーシ軍と合同軍事演習を行ない、それが終わった後もベラルーシにとどまり続けていたのだ。
この時点ですでに「ロシア寄り」とみなされても仕方ないが、ベラルーシ駐留のロシア軍は2月24日、ウクライナ領内のチェルノブイリ(1986年の原発事故で有名)方面に進撃した。
ベラルーシのルカシェンコ大統領はこれまで「ウクライナに部隊を送っていない」としばしば強調してきたが、そうだったとしてもこの国がロシア軍の一つの拠点になっていることは間違いない。そのため、ベラルーシの野党からは「ロシアの野蛮な行為に協力するルカシェンコ政権への制裁」を世界に求める声もあがっている。
(2)「強いソ連」への憧れ
ロシアとの深い関係は、この国のルカシェンコ大統領が「強いソ連」への憧れを強く持つことに一つの原因がある。
ベラルーシは1991年のソビエト連邦崩壊とともに独立した国の一つだが、当時ベラルーシ最高会議の議員だったルカシェンコはソ連解体に唯一反対した議員だったといわれる。
ベラルーシ独立後、ソ連時代から権力を独占してきた共産党関係者の専横や腐敗が目立つなか、ルカシェンコは「反マフィア(既得権益層を指す)」を掲げて1994年の大統領選挙に立候補して勝利し、この国で初めての大統領に就任した。
それ以来、30年近くにわたって権力を握ってきたルカシェンコは、周辺の旧ソ連圏や東欧諸国が欧米に接近するのを尻目に、基本的にロシア寄りの態度を保ってきた。
例えば、NATO加盟はウクライナでデリケートな問題となってきたが、ベラルーシは1992年に発足したロシア中心の軍事同盟、集団安全保障条約機構のメンバーである(加盟国はその他アルメニア、キルギス、カザフスタン、タジキスタンの旧ソ連構成国)。そのため、いずれかの国が攻撃を受ければ、共同でこれに対応することになる。
「強いソ連」に対するルカシェンコの憧憬はやや度が過ぎるほどだ。1999年には両国の政治、経済、安全保障などを段階的に統合するロシア・ベラルーシ連合国家創設条約が結ばれ、いわばロシアとの一体化さえ視野に入れてきた。
もっとも、ナショナリストでもあるルカシェンコは、国力の差を全く無視して「対等の合併」を強調してきたため、当のロシアから冷たい目でみられることもしばしばだった。
(3)ロシアに睨まれたら終わり
ただし、ロシア寄りが鮮明でも、ロシアとの関係が常に順調だったわけではない。むしろ、ルカシェンコ率いるベラルーシはしばしばロシアの逆鱗に触れてきた。
例えば2007年、ロシアはベラルーシ向け天然ガス供給を一時停止した。ベラルーシはロシア産天然ガスを割安で輸入していたが、これを精製した後に転売していたことが発覚したことへの懲罰だった。
さらに、2009年にロシアはベラルーシ産品の輸入を停止した。現在でもベラルーシの輸出の約半分はロシア向けであり、当時この取引停止が大きなショックになったことは間違いない。
この背景には、今回と同じくロシアの軍事行動があった。
その前年ロシアは、旧ソ連の一角で、欧米に接近していたジョージアに侵攻した。このときロシアは、ジョージア政府と敵対していた同国北部のアブハジア地方と南オセチア地方の分離主義者を支援し、その国家としての独立を承認した。
いわば力づくでジョージアからこれらの地方を切り取ったロシアに対して、ベラルーシはアブハジアや南オセチアを国家として承認しなかった。このことがベラルーシ産品の輸入停止を招いたのである。
ベラルーシはロシアと距離を縮めたが故に、ロシアに睨まれないようにしなければならない立場にもある。そのため、今回の侵攻に先立ってロシアがウクライナ東部ドンバス地方の分離主義者を支援し、その「独立」を承認したときもベラルーシはこれを承認しなかった。
もっとも、それだけではジョージアの時と同じになりかねないので、ベラルーシ領内からロシア軍が進撃することを認めた。これはいわば帳尻を合わせた格好といえる。
(4)寝返ることも難しい
「だったら欧米に寝返ればいいのに」と思うかもしれないが、ベラルーシにはそれも難しい。
ロシアとのすきま風が目立つにつれ、2000年代末ころからルカシェンコは欧米との関係改善に着手してきた。旧ソ連圏6カ国との経済交流を目指すEUの東方パートナーシップ協定に参加したことは、その現れである。
しかし、「独裁者」ルカシェンコに対してはEU内に強い拒絶反応がある。ポーランドとリトアニアにはとりわけそれが鮮明だが、両国はベラルーシに地理的に近いだけでなく、歴史的な関係が深い。
ベラルーシは18世紀にロシア帝国に組み込まれ、その後ソ連に継承されたが、それ以前の16-17世紀、この土地は当時ヨーロッパで最も大きな国の一つだったポーランド・リトアニア同君連合によって支配され、ポーランド語を強制された歴史をもつ(この点ではウクライナも同じ)。
関係が深いだけに、ポーランドやリトアニアでは「敵方」に与するルカシェンコへの反感が特に強いわけだが、ルカシェンコにとっても両国は危険な存在といえる。
「独裁者」ルカシェンコに対しては国内でも批判が高まっており、2006年には大統領選挙での不正を批判するデモが拡大して「デニム革命」と呼ばれた(参加者の多くがデニムを着用していたことに由来する)。この際、当局の弾圧を逃れたリーダーの多くはポーランドやリトアニアに渡り、この地で政治活動を続けてきた。
さらに、2020年にも抗議デモが大規模化(後述)し、これに対してEUは2021年の東方パートナーシップ会議でベラルーシの参加資格を停止したが、そこにはポーランドとリトアニアの働きかけが大きかった。
両国を拠点とする拒絶反応は結果的に、ルカシェンコがロシア頼みにならざるを得ない状況を再生産してきたといえる。
(5)崖っぷちの「独裁者」
最後に、国内の混乱によってルカシェンコは、これまで以上にロシアの顔色をうかがわなければならない状況にある。
2020年8月、ルカシェンコは大統領選挙で勝利して6選を決めた。しかし、そもそもルカシェンコが多選を禁じた憲法の改正を重ねて立候補すること自体に批判があり、そのうえ投開票の作業に不正があったと報じられた。そこにコロナ禍に由来する不満が爆発して、抗議デモが全土に拡大したのである。
その結果、数千人が逮捕され、数多くの人々が警察による拷問や暴行の被害を受けたといわれる。さらに、混乱によって多くの難民が押し寄せたポーランドでは国境封鎖を求める声も高まっている。その結果、欧米諸国はルカシェンコを「正統な大統領と認めない」ことを決定したのだ。
これがルカシェンコへの圧力になったことは疑いないが、その立場をさらに不安定にしたのが、反ルカシェンコ勢力へのロシアの支援だった。
反ルカシェンコの抗議には、自由で開かれた社会を目指す勢力だけでなく、それとは逆に排他的で人種差別的なスローガンを掲げる極右も混じっており、政治的混乱を念頭に「ヒトラーのような指導者が今こそ必要」という主張さえ飛び出している。
ルカシェンコにとって大きな問題は、こうした極右の抗議活動にロシア人も混じっていることだ。ルカシェンコは2020年1月、「政情不安を画策する外国人を逮捕した」と発表した。これはロシアのワーグナー・グループ(白人極右団体で傭兵集団でもある)メンバー33人だった。
ロシアは工作活動を否定している。
しかし、先述のように、ロシアとの関係にすきま風が目立つなか、ルカシェンコが欧米との関係改善に着手してきたことを思い起こせば、これまでにないほどのベラルーシの混乱に乗じてロシアが干渉しても不思議ではない。それは「裏切ったり、足を引っぱったりするなら潰す」というルカシェンコへの圧力になる。
ロシアには「ルカシェンコがいなくなってもベラルーシはロシア寄りにならざるを得ない」という目算があるとみられる。
こうして崖っぷちの「独裁者」はロシアの顔色をうかがい、ウクライナ侵攻に手を貸さざるを得ないわけだが、それは結果的に欧米からの圧力をさらに強め、ルカシェンコはますます崖っぷちに追いやられることになる。
歴史を振り返ると、「独裁者」がいなくなった後に底なしの混乱に陥ることは珍しくない。ウクライナ侵攻はベラルーシの今後をも左右しかねないのである。