エースの系譜継ぐ尾花、オープンスタンスの八重樫、現日本ハム監督も…ヤクルト「80年代ベストナイン」

昨年7月のOB戦「ドリームゲーム」では尾花(32)のグラブの展示も(筆者撮影)

 東京ヤクルトスワローズが今年で球団創立70周年を迎えたのを記念して、1950年から10年の年代ごとに「ディケード(10年間の意)・ベストナイン」を選ぶ連載の第4回。今回は80年代の「ベストナイン」を、各ポジションで最もレギュラーとして起用された野手、および最も勝利(セーブ)を挙げた投手を基準に選出した(名前の下は80年代の球団在籍年数および通算成績。投手の防御率は現在の計算方法で算出)。

投手:尾花高夫(おばな・たかお)

10年=357試合102勝117敗29セーブ、防御率3.70

 この年代で唯一、100勝以上をマーク。1982年の12勝を皮切りに6度の10勝以上を記録し、2ケタに届かなかった86、88年も9勝を挙げている。それまでの歴代エースと同様、先発だけでなく時には抑えも務め、82年から4年連続で40試合以上に登板。84年は先発20試合(うち完投8、完封1)、救援25試合で、いずれも自己最多の14勝、7セーブ(翌85年も同数)を挙げた。勝利数だけでなく、セーブ数も中本茂樹(19セーブ)を抑え、この年代ではトップ。

捕手:八重樫幸雄(やえがし・ゆきお)

10年=895試合、打率.250、78本塁打、311打点、6盗塁

 メガネと独特のオープンスタンスがトレードマークの「遅咲きの星」。プロ14年目の1983年、32歳にして大矢明彦から正捕手の座を奪うと、この年に4年ぶりの2ケタとなる16本塁打、翌84年は自己最多の18本塁打を放った。85年には16年目で初の打率3割(.304)で10傑入りを果たし、ベストナインにも選出。オールスターにも3回出場している。打つだけでなく、84、89年を除いて常に盗塁阻止率が3割を超える強肩捕手でもあった。

一塁手:大杉勝男(おおすぎ・かつお)

4年=425試合、打率.300、79本塁打、272打点、2盗塁

 1970年代から引き続き、正一塁手としてプレー。80年は打率.301でリーグ8位、翌81年はキャリアハイの打率.343で同3位となり、両年とも20本塁打以上と、30代後半になっても衰えを感じさせなかった。81年に史上14人目の通算2000安打、83年には史上初の両リーグ1000安打を達成し、両リーグ200本塁打にもあと1本と迫るが、不整脈もあってこの年限りで引退。「さりし夢 神宮の杜に かすみ草」の句を残し、ユニフォームを脱いだ。

二塁手:マルカーノ(ボビー・マルカーノ)

3年=346試合、打率.289、52本塁打、206打点、6盗塁

 阪急ブレーブスでは正二塁手として1975年からのパ・リーグ4連覇、3年連続日本一に貢献し、83年からヤクルトに移籍。この年は25本塁打、78打点でチーム二冠、翌84年は自身6年ぶりの打率3割をマークした。だが、阪急時代とは打って変わってチームは低迷が続き、85年限りで退団の際には「ずっと負けてばかりで悔しかった」と涙を流したという。この80年代は渡辺進も3年間正二塁手を務めたが、スタメン出場がより多かったマルカーノを選出。

三塁手:角富士夫(すみ・ふじお)

10年=1026試合、打率.259、97本塁打、339打点、14盗塁

 1975年のプロ入り以来、ヤクルト一筋に20年間プレー。80年から正三塁手となり、翌81年は初の規定打席到達、84年には全試合出場を果たすなど、堅実な攻守で85年までレギュラーを務めた。その後はレオン、ホーナー、デシンセイといった外国人に定位置を明け渡して控えに回るも、89年から正三塁手に返り咲く。この年代からは外れるが、90年にはプロ16年目で初の打率3割、翌91年はこれも初のゴールデングラブ賞受賞を果たしている。

遊撃手:水谷新太郎(みずたに・しんたろう)

10年=871試合、打率.260、20本塁打、176打点、117盗塁

 若手時代に広岡達朗コーチ(後の監督)に鍛え上げられた守備力を武器に、1970年代後半からショートのレギュラーとして定着。ダイヤモンドグラブ賞(86年からゴールデングラブ賞)とは縁がなかったが、84年には守備率.991で遊撃手としての日本新記録(当時)を樹立した。プロ入り後に左打ちに転向した打撃では、やはり84年にキャリアハイの打率.291をマーク。80年から7年連続2ケタ盗塁を決めるなど(自己最多は82年の22個)、脚力もあった。

左翼手:若松勉(わかまつ・つとむ)

10年=965試合、打率.314、87本塁打、362打点、47盗塁

 1980年代に入っても、三番バッターとして打線をけん引。最初の6年間で打率3割を5回マークし、85年に通算2000安打を達成した。87年からは代打の切り札的存在となり、翌88年にかけて2年連続で代打のリーグ“首位打者”。89年限りで引退するまでに積み上げた通算2173安打は、現在も燦然と輝く球団記録である。通算サヨナラ本塁打8本はリーグタイ記録。引退後はコーチを経て監督に就任し、2001年に球団史上6回目のリーグ優勝、5回目の日本一に導く。

中堅手:栗山英樹(くりやま・ひでき)

6年=425試合、打率.283、6本塁打、63打点、20盗塁

 テスト生としてドラフト外で入団し、俊足を生かすために2年目の1985年オフにスイッチヒッター挑戦。86、88年は規定打席未満ながら打率3割をマークすると、89年は初めて規定打席に到達し、ゴールデングラブ賞も受賞した。故障やメニエール病の再発もあって、90年を最後に28歳の若さで引退。現在は北海道日本ハムファイターズ監督。この年代はブリッグスと杉浦享も中堅手を2年務めたが、最も中堅でのスタメン出場が多かった杉浦は右翼手で選出されているため、これに次ぐ先発出場数の栗山を選んだ。

右翼手:杉浦享(すぎうら・とおる)

10年=1079試合、打率.290、160本塁打、548打点、82盗塁

 プロ入り後に投手から野手に転向し、1970年代終盤から外野のレギュラーに。80年代は右翼、中堅、左翼、一塁と定位置を変えながら、主力として活躍した。左打席からの打球の速さは球界でも指折りで、打率.311でリーグ6位の80年、打率.314、34本塁打、81打点と3部門で自己ベストの85年と、ベストナインを2度受賞。87年には通算3度目の打率3割、5度目の20本塁打以上を記録した。この年代で記録した1023安打、160本塁打、548打点はいずれもチームトップ。

1980~89年:ヤクルトスワローズ

順位=6位4回、4位3回、5位2回、2位1回

通算539勝681敗80引き分け 勝率.442

「2010年代ベストナイン」はこちら

「2000年代ベストナイン」はこちら

「1990年代ベストナイン」はこちら

「1970年代ベストナイン」はこちら

「1960年代ベストナイン」はこちら

「1950年代ベストナイン」はこちら