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“カネやんの女房役”に元“野武士”、現在は郷ひろみの義父も…ヤクルトの「60年代ベストナイン」

菊田康彦フリーランスライター
神宮球場は国鉄時代の1964年からスワローズの本拠地として使用されて現在に至る(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

 東京ヤクルトスワローズが今年で球団創立70周年を迎えたのを記念して、1950年から10年の年代ごとに「ディケード(10年間の意)・ベストナイン」を選ぶ連載の第2回。今回は60年代に各ポジションで最もレギュラーとして起用された野手、および最も勝利を挙げた投手を選出した(名前の下は60年代の球団在籍年数および通算成績。投手の防御率は現在の計算方法で算出)。

投手:金田正一(かねだ・まさいち)

5年=259試合119勝84敗、防御率2.23

※主なタイトル=最多勝利1回、最多奪三振3回

 1960年代も、前半は大エースとして君臨。63年には自身2度目の30勝(自己最多は58年の31勝)を達成して通算3度目の最多勝利に輝くなど、プロ2年目の51年から続くシーズン20勝&200奪三振以上の記録を14年まで伸ばした。64年オフ、FA制度の前身に当たるB級10年選手制度で読売ジャイアンツに移籍。国鉄時代の通算353勝は、不滅の球団記録として残っている。

捕手:根来広光(ねごろ・ひろみつ)

7年=784試合、打率.215、31本塁打、164打点、10盗塁

 プロ入り時は投手だったが、一軍で3試合に投げただけで捕手に転向。2年目の1958年からレギュラーとしてマスクをかぶり、60年代に入っても6年間正捕手を務めた。2年目から着けた背番号27は、その後も加藤俊夫、大矢明彦、古田敦也といった正捕手たちに受け継がれていく。金田正一の女房役としてノーサインで受けていたという逸話は有名だが、昨年10月に死去した金田は生前、返球を受けた際の仕草で伝えていたことを明かしていたという。

一塁手:小淵泰輔(こぶち・たいすけ)

6年=607試合、打率.264、61本塁打、191打点、43盗塁

 西鉄ライオンズ時代は主に二塁の控えで日本シリーズに2度出場。中日ドラゴンズを経て1964年に国鉄に移籍すると、主に五番・一塁でリーグ5位の打率.306、自己最多の15本塁打をマークした。球団がサンケイとして生まれ変わった65年は17本塁打、48打点でチーム二冠。67年まで4年連続で2ケタ本塁打を放った。球団名がアトムズとなった69年を最後に引退すると、その後もチームに残って80年までコーチを務めた。

二塁手:土屋正孝(つちや・まさたか)

4年=453試合、打率.247、23本塁打、137打点、53盗塁

 1959年には巨人の正二塁手としてベストナイン受賞も、61年に国鉄へ移籍。その守備力で課題だった内野陣の強化に寄与し、打っては主に三番バッターとしてキャリアハイの打率.269でリーグ13位に食い込むなど、球団初のAクラス入りに貢献した。気だるそうな表情と、バットを剣豪のように大きく構えるスタイルで、付いたあだ名は「眠狂四郎」。二塁では、67年入団の武上四郎も土屋と同じく3年間レギュラーを務めたが、二塁での通算出場数がより多い土屋を選出した。

三塁手:徳武定之(とくたけ・さだゆき)

7年=912試合、打率.264、79本塁打、363打点、34盗塁

 早稲田実高時代に甲子園出場、早稲田大では主将を務め、激しい争奪戦の末に61年に国鉄入り。ルーキーとしては56年佐々木信也(高橋)、58年長嶋茂雄(巨人)に次いで史上3人目の全試合フルイニング出場を果たし、シーズン後半は四番に定着するなど、チーム最多の62打点をマークした。63年には自己ベストの打率.300でリーグ6位。66年まで正三塁手として全試合出場を続けたが、翌67年の開幕直後にこの記録が止まると、オフにトレードで中日へ放出された。2012年に次女が歌手・郷ひろみと結婚し、義理の父に当たる。

遊撃手:豊田泰光(とよだ・やすみつ)

7年=524試合、打率.260、73本塁打、223打点、23盗塁

「野武士軍団」と呼ばれた西鉄の正遊撃手として新人王、首位打者1回、ベストナイン6回に輝き、62年は選手兼任で助監督も務めたが、翌63年に国鉄へ移籍。開幕から四番を打ち、リーグ9位の打率.292、チームとしては6年ぶりの20本塁打をマークした。64年もチーム最多の24本塁打を放ち、66年からは一塁手に転向。コーチ兼任となった68年には、史上初の2試合連続代打サヨナラ本塁打を記録している。

左翼手:高林恒夫(たかばやし・つねお)

3年=382試合、打率.222、8本塁打、67打点、34盗塁

 立教大では4年秋に東京六大学リーグ首位打者に輝き、社会人の熊谷組時代は都市対抗で橋戸賞を受賞。61年に巨人に入団し、いきなり正左翼手となってファン投票でオールスターにも出場した。63年に国鉄へトレードされると、初の規定打席到達でリーグ最多の6三塁打を記録。翌64年はチームトップの16盗塁を決めるなど正左翼手として3年間プレーした後、27歳で現役を引退した。

中堅手:丸山完二(まるやま・かんじ)

8年=921試合、打率.236、30本塁打、173打点、61盗塁

 立教大では高林恒夫の2年後輩で、3年秋に東京六大学リーグ首位打者を獲得。62年に国鉄に入団すると一番・中堅手に定着し、翌63年は巨人から移籍の高林と一、二番コンビを組んだ。66年から定位置を左翼に移し、68年には三塁手に転向するなど、ポジションを変えながら長くレギュラーとして活躍。ルーキーイヤーからの2年連続を含め、2ケタ盗塁を3回マークしている。現役で10年プレーした後も、コーチ、フロントとして40年以上にわたって燕一筋のプロ野球人生を貫いた。

右翼手:町田行彦(まちだ・ゆきひこ)

5年=579試合、打率.228、27本塁打、142打点、39盗塁

「元祖レーザービーム」ともいうべき強肩と、球団初の本塁打王に輝いたパワーを武器に、1950年代から正右翼手として活躍。だが、この60年代は腰を痛めたのを機に打撃フォームを変えたことが裏目に出て、一気に低迷した。64年オフにはトレード要員になるも交渉がまとまらず、巨人に移籍した金田正一を頼ってテスト入団。わずか1年で引退した後は巨人のコーチや二軍監督を務め、80年にヤクルトのコーチに就任して“古巣”に復帰した。

1960~65年(5月9日まで):国鉄スワローズ、65年:サンケイスワローズ、66~68年:サンケイアトムズ、69年:アトムズ

順位=5位4回、6位3回、4位2回、3位1回

通算574勝734敗40引き分け 勝率.439

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フリーランスライター

静岡県出身。小学4年生の時にTVで観たヤクルト対巨人戦がきっかけで、ほとんど興味のなかった野球にハマり、翌年秋にワールドシリーズをTV観戦したのを機にメジャーリーグの虜に。大学卒業後、地方公務員、英会話講師などを経てフリーライターに転身した。07年からスポーツナビに不定期でMLBなどのコラムを寄稿。04~08年は『スカパーMLBライブ』、16~17年は『スポナビライブMLB』に出演した。著書に『燕軍戦記 スワローズ、14年ぶり優勝への軌跡』(カンゼン)。編集協力に『石川雅規のピッチングバイブル』(ベースボール・マガジン社)、『東京ヤクルトスワローズ語録集 燕之書』(セブン&アイ出版)。

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