年代最多勝&最多セーブは松岡弘、若松勉は最多安打だけでなく…ヤクルト「70年代ベストナイン」

初の日本一を伝える紙面と若松(右)、大杉のベースボールカード(いずれも筆者所有)

 東京ヤクルトスワローズが今年で球団創立70周年を迎えたのを記念して、1950年から10年の年代ごとに「ディケード(10年間の意)・ベストナイン」を選ぶ連載の第3回。今回は球団名に初めて「ヤクルト」の名が付いた70年代編。各ポジションで最もレギュラーとして起用された野手、および最も勝利(セーブ)を挙げた投手を選出した(名前の下は70年代の球団在籍年数および通算成績。投手の防御率は現在の計算方法で算出)。

投手:松岡弘(まつおか・ひろむ)

10年=449試合137勝132敗33セーブ、防御率3.11

※主なタイトル=沢村賞1回

 プロ4年目の1971年、就任したばかりの三原脩監督に開幕投手に抜てきされ、初の2ケタとなる14勝をマーク。球界でも屈指の快速球を武器に、この年から6年連続を含む7度の2ケタ勝利を挙げた。ハイライトは78年で、球団初のリーグ優勝および日本一決定試合でいずれも完封勝利。球団では金田正一以来の沢村賞にも輝いた。この70年代は開幕投手を8回務め、チーム最多勝は6回。勝利数だけでなく、74年から公式記録として導入されたセーブの数も、この年代ではチーム最多だった。

捕手:大矢明彦(おおや・あきひこ)

10年=1146試合、打率.240、78本塁打、358打点、33盗塁

 入団1年目の途中からスタメンに抜てきされると、この70年代は正捕手の座を他に譲らなかった。抜群の強肩で、70年の.568を筆頭に4度の盗塁阻止率リーグ1位はすべて5割以上。キャッチング、リードにも定評があり、72年に制定されたダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を、この年代で5回受賞した。打順は7、8番が定位置だったが、78年の日本シリーズでは阪急ブレーブスのエース、山田久志から本塁打を打っている。

一塁手:大杉勝男(おおすぎ・かつお)

5年=602試合、打率.289、120本塁打、416打点、2盗塁

 東映フライヤーズでは飯島滋弥コーチの「月に向かって打て!」の指導で打撃開眼し、本塁打王、打点王各2回。75年にトレードでヤクルト入りすると、78年は8月から四番に固定されて、打率.327(リーグ4位)、30本塁打、97打点で球団初のリーグ優勝に大きく貢献した。日本シリーズでも第7戦の2ホーマーを含むシリーズタイ記録の4本塁打、同新記録の10打点と打ちまくり、MVPを受賞。生涯で唯一の日本一の美酒を味わった。

二塁手:武上四郎(たけがみ・しろう)

6年=631試合、打率.258、43本塁打、191打点、43盗塁

 ドラフト8位でサンケイに入団した67年に、26歳で新人王を受賞。アトムズ、ヤクルトと移り変わった過渡期の球団を、正二塁手として支えた。71年にはリーグ10位の打率.272に、2年ぶりの2ケタとなる15本塁打、さらに自己最多の14盗塁もマーク。170センチ、73キロと体は小さかったが、闘志むき出しのプレーで「ケンカ四郎」と呼ばれた。引退後はコーチを経て、80年には39歳の青年監督としてチームを2位に導く。

三塁手:船田和英(ふなだ・かずひで)

8年=870試合、打率.262、45本塁打、225打点、81盗塁

 読売ジャイアンツ、西鉄ライオンズで計5回の球宴出場も、“黒い霧”事件に巻き込まれて72年にヤクルトへ移籍。74年には5年ぶりの規定打席到達で自己最多の20盗塁、76年は自身初の打率3割到達でカムバック賞に輝いた。78年は新鋭・角富士夫の負傷でシーズン途中から三塁のレギュラーに返り咲き、2本のサヨナラ本塁打を放つなど、チームの初Vに貢献した。米国の俳優、チャック・コナーズに似た顔立ちで、その主演ドラマから付いたあだ名は「ライフルマン」。

遊撃手:東条文博(とうじょう・ふみひろ)

5年=571試合、打率.234、6本塁打、101打点、76盗塁

※主なタイトル=盗塁王1回

 66年に南海ホークスから移籍し、69年の途中で正遊撃手に定着。翌70年は初の全試合出場で自己最多の28盗塁を決め、球団史上2人目の盗塁王に輝いた。この年、ヤクルトはリーグ新記録の16連敗を喫したが、これを止めたのが東条のサヨナラ安打だった。71年にはリーグ最多の22犠打も記録している。70年代の正遊撃手は、75~76年の永尾泰憲を挟んでこの東条と水谷新太郎が4年ずつで分け合ったが、遊撃での出場試合数がより多い東条を選出した。

左翼手:若松勉(わかまつ・つとむ)

9年=1097試合、打率.323、133本塁打、522打点、104盗塁

※主なタイトル=MVP1回、首位打者2回

 ご存じ「元祖ミスタースワローズ」。背番号が「57」から「1」に替わった72年に球団史上初の首位打者になると、77年には打率.358で2度目のタイトル獲得。チームが初優勝した78年は打率.341、17本塁打でMVPに輝き、日本シリーズでも打率.333、1本塁打と日本一にも貢献した。この70年代はベストナイン7回に加え、ダイヤモンドグラブ賞も2回受賞。通算安打(1237本)はもちろん、本塁打、打点、盗塁もこの年代ではチーム最多である。

中堅手:ロジャー(ロジャー・レポーズ)

4年=460試合、打率.267、110本塁打、260打点、19盗塁

 左のパワーヒッターと期待されて73年に太平洋クラブライオンズに入団も、ケガもあって1年で解雇。翌74年の開幕後にヤクルト入りすると、いきなりチームトップの25本塁打を放ってベストナインに選ばれた。75年は打率.292(リーグ7位)、27本塁打でチーム二冠王、76年にはいずれも自己最多の36本塁打、81打点をマークした。だが、定位置を中堅から左翼に移した77年はシーズン序盤から精彩を欠き、最終的には22本塁打を放つも、この年限りでお払い箱となった。

右翼手:マニエル(チャーリー・マニエル)

3年=325試合、打率.297、92本塁打、232打点、5盗塁

 ヤクルト入団2年目の77年にリーグ3位の42本塁打、同10位の打率.316と本領発揮。翌78年はいずれもチームトップの39本塁打、103打点をマークし、日本シリーズでも3本塁打を放つなど、球団初V&日本一の立役者の1人となった。守備力に対する懸念から、79年は近鉄バファローズにトレード。指名打者として79年は本塁打王とMVP、80年は本塁打王と打点王に輝き、近鉄にパ・リーグ連覇をもたらした。

1970~73年:ヤクルトアトムズ、74~79年:ヤクルトスワローズ

順位=4位3回、6位3回、1位1回、2位1回、3位1回、5位1回

通算554勝664敗82引き分け 勝率.455

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