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「イスラーム〇〇」が妨げる中東理解:シリア内戦を事例に

青山弘之東京外国語大学 教授
(写真:ロイター/アフロ)

巷に溢れる「イスラーム〇〇」

中東(ないしは西アジア・北アフリカ・中央アジア)について知ろうとすると、「イスラーム〇〇」という言葉に多く出くわす。高校の世界史や地理では、この地域の特徴として、乾燥気候、石油、古代文明とともに、イスラーム教があげられている。学問の世界では、イスラーム経済、イスラーム文化、イスラーム社会が研究され、街では、イスラーム映画祭、イスラーム女子といった新語、造語が飛び交う。

巷に溢れるこうした「イスラーム〇〇」のなかで、おそらくもっともよく耳にするのがイスラーム過激派だろう。メディアで多用されるこの言葉は、百科事典やネットでは、イスラーム教の理念に基づき、暴力やテロに訴えて宗教・政治・経済的な目的を実現しようとする武装集団などと説明がされている。それが、イスラーム原理主義、イスラーム復興運動、イスラーム主義、ジハード主義といった学術用語が指す思想や現象のなかに含まれ、過激派の一種だということは理解できる。だが、キリスト過激派、仏教過激派、ユダヤ過激派といった言葉が一般的でないなか、なぜ「イスラーム〇〇」と強調されるのかが判然としない。しかも、その用法は恣意的で、「イスラーム教は過激で野蛮だ」といった偏見や、「イスラーム教はそれ以外の宗教よりも優れている」、「イスラーム教が分かればすべてが理解できる」といった護教論を助長しがちだ。イスラーム過激派はとにかく異常なので、理解できなくて当然だといった思考停止状態をもたらし、実態に迫ろうとする知的営為を損なうことすらある。

本稿は、イスラーム過激派を含む「イスラーム〇〇」という言葉が、中東で起きているさまざまな事象を必ずしも的確に説明していないという考えのもとに論を進める。そのための具体的な事例として、2011年に始まったいわゆるシリア内戦をとりあげ、執拗に干渉を続ける西側諸国(欧米諸国、アラブ湾岸諸国、トルコ)が反体制派をどのように認識してきたのか、そしてイスラーム過激派とみなされる集団がそれ以外の過激派とどのような関係を織りなしてきたのかを明らかにする。これを通じて、イスラーム過激派という言葉を使うと何が見えなくなるのかを考えてみたい。

過激派と穏健な反体制派

イスラーム過激派とみなされる集団は、シリア内戦においては反体制派として位置づけられる。ここでいう反体制派とは、体制打倒をめざし、そのためであれば暴力に訴えることも辞さないとする集団・個人を指す。なぜこのような書き方を敢えてするかというと、シリアでは、既存の体制のもとでの政権交代や、政治プロセスを通じた体制改革・転換を目指す勢力が、反体制派ではなく、「親体制派」(al-muwalah、loyalist)、「愛国的反体制派」(al-mu’arada al-wataniya、patriotic opposition)とみなされ、反体制派と区別されてきたからである。言い換えると、シリア内戦における反体制派とは、政治学の定義に従うのであれば、言動面での過激性を特徴とする急進派(radical)を指していることになる。

西側諸国は2013年頃から、この反体制派を「過激派」(mutatarrif、extremist)と「穏健な反体制派」(al-mu’arada al-mu’tadila、moderate opposition)に分けるようになった。シリア内戦のなかで興亡した主要な組織がそのいずれに分類されていたのかについては図を参照されたい。

図 シリア内戦における反体制派の分類と実態(筆者作成)
図 シリア内戦における反体制派の分類と実態(筆者作成)

過激派と穏健な反体制派を区別する基準となったのは、依って立つイデオロギー、そして西側諸国との関係だった。イスラーム教によって自らの言動を正当化し、西側諸国が否定的に捉えれば、過激派とみなされた。つまり、過激派はイスラーム過激派と同義だった。一方、穏健な反体制派は当初は、西側諸国が「シリア国民の唯一の正統な代表」として承認したシリア国民連合(正式名はシリア革命反体制勢力国民連立)などの政治組織を指していたが、ほどなく武装集団を意味するようになった。自由、民主主義、尊厳といったいわゆる「シリア革命」の大義を掲げ、欧米諸国の支援を受けたこれらの集団は、自由シリア軍諸派を自認した。

過激性を特徴とするはずの武装集団の一部に「穏健な」という語が冠せられたのは、体制を是が非でも倒したいという西側諸国の意思を反映していた。それゆえ、過激派と穏健な反体制派を峻別することには無理があった。理由は三つあった。

第1は、西側諸国が過激派を陰に陽に後援していたためだ。サウジアラビアはイスラーム軍を、トルコとカタールはシャーム軍団、シャーム自由人イスラーム運動(別名アフラール・シャーム)、シャームの民のヌスラ戦線(通称ヌスラ戦線)を支援し、欧米諸国はこれを民主化支援だとして黙認した。

第2は、欧米諸国の支援目的が一貫性を欠いたためである。欧米諸国は当初、体制打倒をめざすために穏健な反体制派を支援すると主張した。だが、その後、イスラーム国に対する「テロとの戦い」で協力することを、穏健な反体制派とみなす条件とした。「協力部隊」(partner forces)と呼ばれるようになった穏健な反体制派は、シリア内戦の文脈においてもはや反体制派ですらなかった。

第3は、過激派と穏健な反体制派が、シリア軍と対峙するため、各地で合同作戦司令室を設置したり、連合体として糾合したりするのを躊躇しなかったためだ。アレッポ市東部での攻防戦(2015年後半)で結成されたアレッポ軍には、ヌールッディーン・ザンキー運動、シャーム戦線と、シャーム自由人イスラーム運動、イスラーム軍、シャーム軍団、シャーム・ファトフ戦線(別名シャーム征服戦線)が参加した。また、ダルアー県での最終決戦(2018年前半)で結成された「堅固な建造物」作戦司令室には、南部戦線の名で糾合していた穏健な反体制派に加えて、シャーム解放機構(別名シリア解放機構)、シャーム自由人イスラーム運動、イスラーム軍が参加した。さらに、イドリブ県に対するシリア・ロシア軍の爆撃が再開された2019年4月に結成された「決戦」作戦司令室、は、国民解放戦線、シャーム解放戦線、そして穏健な反体制派のイッザ軍からなっていた。

なお、アレッポ軍に参加したシャーム戦線には、シャーム自由人イスラーム運動のメンバーも加わっていた。また、南部戦線にはイスラーム国に忠誠を誓うヤルムーク殉教者旅団が名を連ねていた。一方、国民解放戦線は、2018年5月に穏健な反体制派のヌールッディーン・ザンキー運動、ナスル軍、自由イドリブ軍が、シャーム自由人イスラーム運動、シャーム軍団とともに結成した連合体で、2019年9月には、アレッポ県北部で活動していた穏健な反体制派のスルターン・ムラード師団やナスル軍を軸とする国民軍(シリア国民連合暫定内閣防衛省所轄、2017年12月結成)に統合された。

過激派と穏健な反体制派の実態に目を向けると、両者を構成する諸集団、そして個人はスペクトラのように連なり合っており、離合集散を繰り返すなかで渾然一体と化していた。特定の集団がイスラーム教の理念に立脚しているか否か、つまりイスラーム過激派であるか否かを指摘できたとしても、その集団の行動はそれ以外の集団と何ら変わらなかった。

過激派と合法的な反体制派

西側諸国は2016年になると、反体制派を別のかたちでも分類するようになった――過激派と「合法的な反体制派」(al-mu’arada al-shar’iya、legal opposition)である。各組織がどちらに分類されていたかは、前掲の図を参照されたい。

体制打倒をめざす反体制派の活動は、その過激性ゆえに違法だった(既存の体制を承認していればの話だが)ことは言うまでもない。それゆえ、合法的な反体制派という表現は矛盾しているように思える。だが、ここでいう合法性は国際法上のそれを指しており、国連が主導する和平プロセスへの関わり方、そして国連安保理アル=カーイダ制裁委員会によるテロリスト指定の有無に関わっていた。和平プロセスを認め、シリア政府と停戦し、対話に応じる反体制派は合法的な反体制派で、和平プロセスを拒んで武装闘争を続ければ、「アル=カーイダとつながりがある組織」(al-munazzamat al-murtabita bi-al-qa’ida、entities associated with Al Qaeda)、つまりはテロリストとみなされて「テロとの戦い」の対象となった。

新たな分類は、シリア内戦の潮目の変化によるものだった。体制打倒の是非を主要な争点としていた当初、穏健な反体制派という概念は、西側諸国が過激派を支援していた事実を見えにくくする効果があった。だがその後、ロシアやイランを後ろ盾とするシリア政府の優位が確定すると、西側諸国は反体制派のさらなる敗退を回避する必要に迫られた。シリア政府との停戦や対話を通じて、現状維持を試みようとする反体制派の存在は、こうした要請にかなっていた。

ここにおいて、過激派か穏健な反体制派かは重要ではなかった。和平プロセスを受け入れれば、イスラーム軍、シャーム軍団といった過激派であっても、合法的な反体制派になることができた。その一方で、イッザ軍のようにシリア軍に対して徹底抗戦を続けた穏健な反体制派はテロリストとして扱われた。

それだけではなかった。過激派と合法的な反体制派の峻別においては、アル=カーイダとのつながりさえもしばしば度外視された。ここでいう「つながり」とは、国連安保理アル=カーイダ制裁委員会においてテロリストに指定されていることではなく、その生成過程においてアル=カーイダの系譜を汲んでいることを意味する。

その最たる例がシャーム自由人イスラーム運動だった。アフガニスタンやイラクでの戦歴を持つアル=カーイダ・メンバーのアブー・ハーリド・スーリーがシリア国内の刑務所での収監経験を持つ元政治犯と2011年末に結成したこの集団は、アル=カーイダとのつながりをことさら否定した点に特徴があった。前節で見た通り、シャーム自由人イスラーム運動は、シャーム戦線に加わるなど、穏健な反体制派との連携を重視、最終的には国民解放戦線や国民軍に合流していった。

ただし、改めて強調しておきたいのは、こうした「なりすまし」のいかんにかかわらず、合法的な反体制派は、必要に応じてアル=カーイダの系譜を汲む集団との連携や糾合を繰り返したということだ。シャーム自由人イスラーム運動は2015年3月にアル=カーイダの系譜を汲まないイスラーム軍やシャーム軍団だけでなく、ヌスラ戦線とファトフ軍を結成、これによって反体制派はイドリブ県全域を掌握することができた。また、イッザ軍が「決戦」作戦司令室でシャーム解放戦線、国民解放戦線と共闘したことも前節で述べた通りである。

ガラパゴス化するアル=カーイダ

シリア内戦においては、イスラーム国が台頭した2014年以降、「テロとの戦い」が大きな争点となった。だが、過激派と合法的な反体制派を区別する基準であるはずのアル=カーイダとのつながりは、実質的な意味をなさなかった。その主因は、西側諸国が両者を恣意的に峻別しようとしたことにあった。だが、紛争のなかで、アル=カーイダの系譜を汲む集団が独自の「進化」を遂げていったことも、こうした状況を助長した。

シリアのアル=カーイダの起点として位置づけることができるのがヌスラ戦線だ。この集団は、イラクのアル=カーイダ(イラク・イスラーム国)のシリアにおけるフロント組織として2011年末頃から活動を開始、2012年半ばまでに各地に勢力を伸長し、シリアでもっとも有力な反体制派としての地位を揺るぎないものとした。

このヌスラ戦線と袂を分かったのがイスラーム国である。結成の経緯はこうだ――2013年4月、イラク・イスラーム国の指導者アブー・バクル・バグダーディーがヌスラ戦線を傘下組織だと暴露、イラク・イスラーム国とヌスラ戦線を完全統合し、イラク・シャーム・イスラーム国(Islamic State in Iraq and Syria(ISIS)、Islamic State in Iraq and Levant(ISIL)、al-Dawla al-Islamiya fi al-’Iraq wa al-Sham(Da’ish、ダーイシュ))に改称すると宣言した。だが、ヌスラ戦線はこれを拒否し、独自の活動を続けると表明した。この対立を受けて、アル=カーイダ最高指導者のアイマン・ザワーヒリーは11月、ヌスラ戦線とイラク・シャーム・イスラーム国の活動の場をそれぞれシリア、イラクに分けるとの裁定を下し、その遵守を求めた。だが、イラク・シャーム・イスラーム国はこれを拒否、ザワーヒリーは2014年2月に破門を言い渡した。

イラク・シャーム・イスラーム国は、ヌスラ戦線が主導する反体制派の手中にあったラッカを制圧するなどして強大化、イラク国内にも勢力を伸長した。そして2014年4月、イラク第2の都市モスルを制圧し、カリフ制樹立を宣言、イスラーム国に改称し、イラクとシリア領内の広大な地域を掌握していった。

イスラーム国は「アル=カーイダよりも過激」と評され、アル=カーイダとは異なるイスラーム過激派とみなされることが多い。だが、その生成過程を見ると、アル=カーイダそのものであることが再確認できる。

一方、イスラーム国の暴力性と狂信性が注目を浴び、米国が主導する有志連合が軍事介入に踏み切るなか、ヌスラ戦線は体制打倒に注力することで「進化」を続けた。その際に採用されたのが、穏健な反体制派への「なりすまし」だった。

ヌスラ戦線は2016年7月、アル=カーイダの了承のもとにアル=カーイダと関係を絶ち、組織名をシャーム・ファトフ戦線に改め、アレッポ軍への参加を通じて、穏健な反体制派と積極的に連携するようになった。この集団はまた、2017年6月にはヌールッディーン・ザンキー運動をはじめとする穏健な反体制派と統合して、シャーム解放機構を名乗るようになった。

しかし、シャーム解放機構のこうした動きは、シャーム自由人イスラーム運動との間で「なりすまし」をめぐる主導権争いを誘発した。この対立は、穏健な反体制派をも巻き込んだかたちで激化し、最終的には、シャーム解放機構がイッザ軍とともに過激派として活動を続け、シャーム自由人イスラーム運動は、ナスル軍、自由イドリブ軍、そして2017年7月にシャーム解放機構を離反したヌールッディーン・ザンキー運動とともに、国民解放戦線、国民軍に合流し、合法的な反体制派となる道を選んだのは前述の通りである。

ただし、これまでも述べてきた通り、反体制派の離合集散は状況対応的で、シャーム解放機構とシャーム自由人イスラーム運動は、ダマスカス郊外県東グータ地方では「彼らが不正を働いた」作戦司令室(2017年11月結成)を、またダルアー県では「堅固な建造物」作戦司令室のもとで、穏健な反体制派も巻き込んだかたちで共闘した。

一方、「アル=カーイダらしさ」にこだわった集団もあった。ジュンド・アクサー機構がそれだ。ヌスラ戦線の元メンバーが2014年11月に結成したこの集団は、アル=カーイダに忠誠を誓う一方、イスラーム国に共鳴する者たちの受け皿にもなった。そのため、ヌスラ戦線とイスラーム国の活動を架橋する役割を果たし、ファトフ軍にも参加した。だが、「なりすまし」をめぐるシャーム解放機構とシャーム自由人イスラーム運動の主導権争いのなかで翻弄され、内部対立を来たし、2017年2月には瓦解した。

その後、今度はフッラース・ディーン機構を名乗る新たな集団が台頭した。2018年2月に結成されたこの集団を指導したのは、アブー・ハマーム・シャーミーを名乗る人物だった。彼は、アル=カーイダのメンバーとしてアフガニスタンやイラクでの戦歴を持ち、ヌスラ戦線メンバーでもあった。だが、ヌスラ戦線がシャーム・ファトフ戦線への改称時にアル=カーイダとの関係を解消したことを不服として離反、アル=カーイダの「再興」をめざしていた。また、こうした姿勢に同調するかたちで、アンサール・タウヒード、アンサール・ディーン戦線、アンサール・イスラーム集団を名乗る武装集団が次々と結成された。これらの集団は2018年10月に「信者を煽れ」作戦司令室を結成し、「アル=カーイダらしさ」を誇示して、イドリブ県やラタキア県でシリア軍に対する抵抗を続けた。

アル=カーイダの系譜を汲む集団の「進化」の過程を見ると、これらの集団にとってはアル=カーイダとのつながりさえも取捨選択が可能なツールであることが分かる。そして、こうした柔軟性は、狂信性や厳格さとともに語られがちなアル=カーイダ、さらにはイスラーム過激派が持つステレオタイプとは真逆なのである。

イスラーム過激派と括ることの問題

本稿はイスラーム過激派を含む「イスラーム〇〇」という言葉が、中東で起きているさまざまな事象を必ずしも的確に説明していないという考えのもとに論を進めてきた。そして、シリア内戦において、イスラーム過激派と呼べるような独立した紛争当事者を認知することができないことを明らかにした。

穏健な反体制派と対峙される過激派は、イスラーム教の理念に基づいていた点でイスラーム過激派と同義であると言うことはできた。だが、合同作戦司令室の設置、武装連合体や新組織の結成を通じた離合集散、そして「なりすまし」を通じて渾然一体と化す反体制派のスペクトラのなかで、過激派と穏健な反体制派の行動様式と思考様式には何の違いもなかった。それは、反体制派を過激派(テロリスト)と合法的な反体制派に分けた場合においても同じだった。

反体制派がどのように分類されようとも、彼らにとってもっとも重要なのは、過激派としての勢力の維持・拡大、延命、保身だった。ここにおいて、イスラーム教という理念は、「シリア革命」の理念、体制打倒や和平プロセスへの参加といった軍事的・政治的な戦略・戦術、西側諸国との関係、さらにはアル=カーイダとの関係と同じく、副次的な意味しか持っておらず、状況対応的に取捨選択し得るものだった。過激派としての活動を可能とする資源、すなわちヒト(戦闘員)・モノ(武器兵站)・カネ(資金)の提供者、そしてそれらの入手経路が確保できるかどうかがカギだった。イスラーム教の理念をアピールすることで、アラブ湾岸諸国やトルコから資源が得られるのであればそうしたし、「シリア革命」を全面に打ち出した方が欧米諸国の世論において良い心証を与えるのであればそうしただけなのだ。

反体制派を過激派と穏健な反体制派と、あるいは過激派と合法的な反体制派に分けようとした西側諸国にしても、自らのシリア政策を円滑に進めるためにそうしたに過ぎなかった。その姿勢は、体制打倒をめざすあらゆる反体制派を過激性の有無にかかわらずテロリスト呼ばわりしたシリア政府、ロシア、そしてイランに比して一貫性を欠いたものだった。だが、西側諸国にしても、シリア、ロシア、イランにしても、こうしたレッテル化の過程でイスラーム過激派という紛争当事者を想定することなどなかった。

イスラーム過激派にとってのイスラーム教の意味、あるいはイスラーム過激派の特徴を敢えて言葉で表すと、それ以外の過激派と同じように、イスラーム教が本質をなしていないということに尽きる。イスラーム過激派という言葉を耳にすると、そのセンセーショナルな響きもあいまって、紛争や混乱に苛まれる今時の中東の停滞の元凶であるような印象を与える。しかし、実在しない架空の主体を仕立て上げて、中東情勢を理解した気になることは、無知を無知で上塗りするようなものなのかもしれない。

参考文献

青山弘之『シリア情勢:終わらない人道危機(岩波新書)』岩波書店、2017年。

―――「シリア情勢2017:「終わらない人道危機」のその後」Yahoo! JAPANニュース(個人)、2018年2月21日~3月21日(15回連載)。

―――「シリア情勢2018」Yahoo! JAPANニュース(個人)、2019年2月8日~3月15日(9回連載)。

小杉泰『9・11以降のイスラーム政治(岩波現代全書)』岩波書店、2014年。

「シリア・アラブの春顛末記:最新シリア情勢」

東京外国語大学 教授

1968年東京生まれ。東京外国語大学教授。東京外国語大学卒。一橋大学大学院にて博士号取得。シリア地震被災者支援キャンペーン「サダーカ・イニシアチブ」(https://sites.google.com/view/sadaqainitiative70)代表。シリアのダマスカス・フランス・アラブ研究所共同研究員、JETROアジア経済研究所研究員を経て現職。専門は現代東アラブ地域の政治、思想、歴史。著書に『混迷するシリア』、『シリア情勢』、『膠着するシリア』、『ロシアとシリア』などがある。ウェブサイト「シリア・アラブの春顛末記」(http://syriaarabspring.info/)を運営。

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