豊臣家が滅亡した大きな原因は、豊臣秀吉の後継者問題にあった
人口戦略会議の報告により、消滅する可能性がある自治体が公表された。言うまでもなく、少子高齢化の影響である。豊臣秀吉もなかなか実子に恵まれず、それが豊臣家の滅亡につながったと考えられるので考えてみよう。
豊臣秀吉は農民の出身ながらも、天下人に上り詰めた。しかし、豊臣政権を維持するうえで、致命的な欠陥があった。秀吉は信農民出身だったので譜代の家臣を持たず、家臣団を編制する必要があった。
しかし、信頼できる弟の秀長は、天正19年(1591)に亡くなり、五奉行(前田玄以、浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家)が頼りだった。
永禄4年(1561)、秀吉は織田家の弓衆・浅野長勝の養女「おね」(「ねね」とも)と結婚したが、実子には恵まれなかった。そのような事情から、次に示すとおり、他家から養子を迎えた。
①秀次(三好吉房の子)。
②秀康(徳川家康の子。のちに結城家の養子)。
③秀俊(のちの秀秋、木下家定の子。のちに小早川家の養子に)。
④秀勝(秀次の弟、三好吉房の子)。
⑤秀勝(織田信長の子)。
三好吉房は、秀吉の姉・とも(日秀尼)を妻として迎え、のちに清須城(愛知県清須市)主を務めた。木下家定は秀吉の妻・おね(高台院)の兄で、関ヶ原合戦後は足守城(岡山市北区)主になった。しかし、秀康と秀俊は他家の養子に出され、2人の秀勝も若くして亡くなった。
秀次は秀吉から関白の座を受け継いだが、文禄4年(1595)に謀反の嫌疑をかけられ、高野山(和歌山県高野町)に追放のうえ切腹を命じられた(秀次が切腹した理由は諸説あり)。
天正17年(1589)、秀吉と側室の淀殿との間に鶴松が誕生したが、わずか2年後に病没した。秀吉の精神的なショックは、非常に大きかったに違いない。
秀吉と淀殿の間に、2人目の子の秀頼が誕生したのは文禄2年(1593)のことである。後継者が誕生したのだから、秀吉の喜びも大きかったことだろう。
一方で、当時の秀吉は数え年で57歳だったので、残された時間は乏しかった。秀吉が秀頼の将来を案じつつ、この世を去ったのは慶長3年(1598)である。秀頼は、数え年で6歳という幼子だった。
秀吉が徳川家康ら重臣に対して、秀頼への忠誠を誓わせるべく、起請文を提出させたのは有名な話である。しかし、豊臣政権は崩壊の一途をたどり、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦以降、家康の台頭を許したのである。