なぜ岡山倉敷市の星野仙一記念館は閉館したのか…所蔵品がファンに伝え続けたこと…最後の1日を追う
「生前に彼は『閉館してくれ』とおっしゃってました。『自分が亡くなったときは必ずつぶれる』と…。でもそんなことはありませんでした。私はできる限り星野というビッグな人の名誉を傷つけないよう一生懸命にやってきた。惜しまれる中で閉館すれば悔いはない。星野はよく『ココは俺の応接間や』といってくれてました。今日の日を天国で見ていてくれているでしょう、『ようやった!』と言ってくれていると思います」 星野記念館が、ここを訪れる人に伝えてきたものは何だったのか。 この日、閉館をしのんで訪れたファンの中に家族で兵庫県西宮市から訪れた白野正仁さん(55)の姿があった。星野氏の阪神監督時代の背番号77のはっぴ姿。 「本当にさみしいです。元々、年に2、3回はここに来て生前の星野さんとも会い、声をかけてもらいました。星野さんはアメとムチというかその使い分けがうまく、熱いところが大好きでした。社会人としても見習うところはいっぱいあります」 夫人の美貴さん(41)も「私たちの家族は命日の1月4日は毎年ここに来てるんです。リーダーとしてどうあるべきかの見本を見せてくれた方でした」という。 2人は2018年に解散した星野氏の有力後援会「大仙会」のメンバーでもあり、星野氏の殿堂入りパーティーにも出席し、当時まだ身重だった美貴さんのおなかを見て星野氏は「オレの子やな」などよく冗談を言いながら励ましてくれたという。 神奈川県から、日帰りの“弾丸ツアー”でやってきた会社員の森藤智さん(41)も同会メンバーの出身で「阪神を長い低迷から救った方ですから。弱いチームを何が何でも強くするというその情熱が素晴らしかった」と話した。 記念館は星野氏そのものだった。“闘将”と呼ばれた星野氏の生き方や情熱に感動して、勇気をもらい、星野氏を愛し続けてきた人々は、このゆかりの場所を訪れることで、星野氏から伝えられ、学んだ熱いモノを再認識してきたのだ。 記念館は閉館することになったが、その意思は継承される。今後、1000点もの所蔵品は倉敷市に寄贈され、その管理を託すことが決まった。 受け入れる伊東市長は、「(過去に)倉敷市のスポーツ大使を引き受けてくださるなど、文化的にも貢献は計り知れない。星野さんの人生の軌跡を市の貴重な宝物として何としても守らないといけない、散逸しないように、と思っていました。いつも『夢』という言葉を書いていただき我々、大人や子供も大きな力を得ました。今後もファンや市民の方に見に来てもらえるよう検討していきます」と公約した。 故人となって記念館が消えようとも星野氏が残してくれた偉業の数々は色あせるわけがない。今後、大事な品々をどう活用していくかに注目が集まるが、考えてみればもともと転んでもタダでは起きないのが星野流。Bクラスに低迷すると必ず翌年にやり返してきた“燃える男”である。 「閉館はさみしいです。悔しいです。でも思いを残すことはありません。貴重な記念物が永久保存されるのはかけがえのない思いです。倉敷市の皆さんでこれ以上に大きく復活していただくことを切にお願いします」 延原館長は、涙を浮かべながら頭を下げた。 星野記念館の最後の1日は、復活へのスタートの日だったのかもしれない。 (文責・岩崎正範/スポーツライター)