なぜ岡山倉敷市の星野仙一記念館は閉館したのか…所蔵品がファンに伝え続けたこと…最後の1日を追う
閉館が発表されたのは10月中旬。延原館長は「(発表してからは)8226人の方がお見えになった。北は北海道から南は沖縄まで。沖縄の人は3日かけてしのんでくれました。見学時間30分のところを2、3時間も見てくれた。全国の人から愛されて…私も本当にやってよかったと思います」と振り返った。 星野氏を恩師と慕う中日前監督の与田剛氏も、退任決定後、報告に訪れたという。 13年前に星野記念館がオープンするきっかけとなったのは一枚のユニホームだった。 延原館長が言う。 「この記念館を作るきっかけは2003年に阪神が優勝してユニホームをもらったことから始まった。お前の記念館を作るよ、とか箪笥の肥やしにするにはもったいないとか、最初は冗談から始まり決意したんですが…。作るからには星野のステータスを第一にする。だから(入場料金が)ワンコイン(500円)でも全国の皆さんに来ていただこうと(観光地の)美観地区に作ったんです」 延原館長は星野氏と40年来の親交を持っていた。星野氏は、1997年1月31日早朝に夫人の扶沙子さんが天国に旅立つと、真っ先に延原館長に報告した。中日、阪神、楽天の監督打診があった際には、必ずといっていいほど延原館長に「どうしたらいいんやろ」と相談するほどの間柄だった。 2005年には、巨人の次期監督候補として、当時阪神SDの立場にあった星野氏の名前が浮上。報道が過熱していたが、当時、延原館長は、「星野は絶対に受けない。受けるわけがない。わしが一番彼をよく知っとるから」と断言していた。星野氏は、その後、阪神残留会見を行った。 星野記念館を開館した年に、北京五輪があり、星野ジャパンはメダルを逃した。星野バッシングも起きたが、乗り切り、昨年は、新型コロナ禍に見舞われたが、黒字経営を維持した。 「星野のブランド、持ち続けてきたプライドや精神を守り、それをより多くの方に知ってもらいたい」との強い気持ちが支えだったという。