「大化の改新」「明治維新」に次ぐ日本史上3度目の「文明開化」とは? 頑固な年寄りの抵抗に負けずにマイナンバーを進めるべき理由
1度目は「文字」
日本という「ユーラシアの帯」(これまでに何度か説明している)の東の果ての島国に、文字(漢字)文明が浸透しはじめたのは、7、8世紀のことである。それまでにも金印や鉄剣というかたちで漢字が伝わっていたのであるが、日本人あるいは日本の組織が主体的に文字を使うようになったのは、記紀万葉(『古事記』『日本書紀』『万葉集』)の時代からだ。 この「文字」という一大文明を取り込むことによって、この島は本格的な「国家」となった。そこに大変な苦労があったことは、『日本書紀』は中国語で、『万葉集』は漢字を音の記号として、『古事記』はその混用で書かれていることからも明らかである。漢字はそれ自体「意味」をもつので、「ユーラシアの帯」の西側に普及した音の記号としてのアルファベットのようなわけにはいかなかった。 この時期、乙巳(いっし)の変というクーデターによって大化の改新が始まり、天皇(大君・オオキミと呼ばれた)中心の集権体制をとった。また白村江の戦いにおける唐と新羅の連合軍に対する敗北があった。そして危険を犯しながらも遣唐使を送りつづけ、仏教という国際思想とともに中国風の制度を取り入れて律令体制を固める。もちろん開化に取り残された人々の大きな怨念があったことは『万葉集』にもよく現れている。(参照・若山滋著『「家」と「やど」-建築からの文化論』朝日新聞社・1995年刊) いずれにしろ、この「文字=漢字」が日本国成立の礎となったことは明らかである。そして平安時代における、ひらがな・カタカナという独自の文字の発明によって、中国文明に対峙するものとしての日本文化が成立し、この開化は一応の終結を見たといえる。しかし文化が内向化した(いわゆる国風文化)ことが、院政という天皇制=律令制の形骸化を生み、鎌倉幕府の成立につながった。
2度目は「蒸気」
2度目の開化は黒船にのって現れた。 もちろん、その艦載砲の威力が、沿岸部に集中した日本の大都市を壊滅させうるもので、薩摩も長州も敗北したことが直接の脅威であったが、この船が蒸気力という物質の燃焼によって動くこと(それまでは牛や馬や風という自然の動力しか知らなかった)と、ペリーがアメリカという東の海の彼方からやってきた(それまでの文明はすべて西からやってきた)ことが日本人をおどろかせた。ここでも日本人は、明治維新というクーデターを起こし、かつての遣唐使のように、西洋へ視察団や留学生を送り、西洋文明とそれに続く近代工業文明を取り入れた。 日露戦争の勝利はその成功としてひとつの節であった。しかしこれまで述べてきたように、急速な都市化には強い反力がともなう。西洋からの文明開化に逆行する精神としてのナショナリズムが、太平洋戦争にまでつながった。 敗戦後、民生用の技術に特化したおかげで、自動車、オートバイ、家庭電化製品、カメラ、時計など、あらゆる工業製品において世界トップの地位に上りつめた。ユーラシアの帯の東の果ての島国は、大変なことを成し遂げたのだ。しかしいまだにその成功体験を払拭できず、バブル崩壊以後、日本経済は低迷を続け、国力そのものが凋落の一途だ。その大きな原因が情報化社会の競争に敗れたことである。