ジャニーズ性加害問題の本質はテレビ局の堕落 「視聴者がそういう番組を欲しているから」の言い訳はもはや通用しない
2019年に死去したジャニーズ事務所の創業者で元社長のジャニー喜多川氏による性加害問題は、企業がジャニーズタレントのCM起用をとりやめるなど、いまだ収束する気配が見えません。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、「問題の本質はテレビ局の文化的堕落にあるのではないか」と指摘します。若山氏が独自の視点で語ります。
「司法の言葉」の衝撃
ジャニーズ事務所の問題を巡って、「外部専門家による再発防止特別チーム」が公表した調査報告書の内容は、そうとうに踏み込んだものであった。このような、特に当事者側が設置した検証組織の結論は、忖度を含んだ玉虫色に落ち着きがちだが、今回、前検事総長の林真琴弁護士を中心とした3委員のハッキリした言明には、ある種の覚悟が感じられた。 うすうす気づいていたことが具体的な言葉になる衝撃である。性的な(それも正常ではない)事件を赤裸々に語る「司法の言葉」の衝撃である。劇場からいきなり法廷につれていかれたような緊張を覚えた。 中でも意味深く思われたのは「マスメディアの沈黙」の責任に触れたことだ。むしろ問題の本質はそこにあるのではないか。このところ日本のテレビ(特に地上波)は、アイドルとお笑いタレントが出ずっぱりであった。 その後、ジャニーズ事務所は新体制を発表して謝罪会見を開いたが、批判がおさまるどころか、スポンサーを降りる企業が続出している。本来利益を追求する私企業が社会性を重視し、本来公共の電波を使って社会の木鐸をもって任ずべき報道機関が「視聴率=広告収入」を追求することにかたよった番組編成を行なっているのだ。 ここでジャニー喜多川という人物の所業はさておき、芸能とメディアの関係を、文化論的に考えなおしてみたい。
蔑みのまなざしと憧れのまなざし
これまでも人気芸能人のバックにいる人物はたびたび話題になった。美空ひばりのバックには有名な任侠団体の3代目が、ピンク・レディーのバックには大物総会屋がいたという。最近話題になった猿之助事件には、歌舞伎界の淵源たる「能」の祖ともいうべき世阿弥とそのパトロンの足利義満との同性愛的な関係を思わざるをえなかった。 芸能は興行でもある。華々しい表舞台の裏で、非日常的な世界をとりしきる力が必要だ。疑似恋愛的な部分を含めて人を惹きつける若い芸能者の魅力を売買する仕事は一種の裏稼業であった。つまり、テレビ局が、報道者としての魂を、あるいは文化創造者としての魂を失えば、その瞬間に、裏稼業的な興行者へと堕するのだ。 かつて芸能者は「河原者」と呼ばれた。サーカスや小屋掛けの見世物など、芸能者は大衆の好奇のまなざしに身を晒すものであり、社会的にも蔑視される存在であった。しかしその「蔑み」の視線の先にある人を惹きつける力は「憧れ」の視線に転ずる。古来、芸能は神に捧げる神事でもあり、この世界において「聖と賎」は表裏一体なのだ。 古代中世の権力者は、芸能者を自分の館に呼び入れて愛玩する。白拍子(しらびょうし)や同朋衆(どうぼうしゅう)といったもので、いわゆる「座敷芸」となって、「芸者」というホステス(本来、サロンを主催する女性の意味)のような職種を生み、今日のクラブやスナックの文化にまでつながっている。 近世、「舞台と客席」が制度化され(それまでは出す方の気分によっていた金銭が、受ける方の設定する入場料に変化する)、河原や大道で見下げられた芸能者は、客席から見上げられる存在となり、蔑みのまなざしは薄れ、憧れのまなざしが強くなる。日本なら近松門左衛門、ヨーロッパならシェイクスピアの出現ぐらいからであろうか。市民社会の成立とともに芸能者は人々の視線を集める星(スター)になっていくのだ。(参照・『アイドルはどこから-日本文化の深層をえぐる』篠田正浩・若山滋共著・現代書館2014年刊)