気候変動という「新しい風土」 人類はこれからどう生きればよいのか
文明の先にある風土論
非先進国が先進国と同じタイプの発展を遂げることには地球的な無理があるように思える。とはいえ、先進国が途上国の発展を抑えようとすることは道義的な無理がある。その問題解決の難しさから、国連はSDGsという一見総花的な目標を掲げざるをえないのではないか。僕はむしろ、気候変動、異常気象にしぼって、これに対処することを考えた方がいいような気がする。これからの人類は「新しい風土」を生きなくてはならないのではないか。 斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』が話題になった。コモン(共有財産)という考え方には賛同できるが、今『資本論』をもちだすのはどうだろうか。むしろ、かつて社会主義だった国と現在も社会主義の国が、資本主義国に劣らないぐらいCO2を排出していることを考えれば、今こそ『資本論』の賞味期限が来ていることを感じる。必要なのはむしろ「人新世の風土論」ではないか。 それは、これまでのような文明に向かう過去としての「郷愁の風土論」ではなく、文明が向かう未来としての「開拓の風土論」である。「人類は都市化する動物である」というのが僕の基本的な考え方であるから、文明の発展そのものを否定することはできない。しかしその発展の質を変えることはできるような気がする。外的なものから内的なものへ。物質的なものから精神的なものへ。これ以上の温暖化ガスの発生を抑えつつ、気候変動を踏まえた新しい風土に生きる覚悟とその準備が必要だ。もちろん困難な道であるが、微かな希望に向かって進まなくてはならない。 人間の幸福は均質的な文明の中にではなく、それぞれの風土の中にこそ存在する。