都市論、建築論的に解釈する「鎌倉殿の13人」
俳優の小栗旬さんが主人公・北条義時を演じるNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。三谷幸喜さんの脚本と豪華なキャスト陣が話題となっています。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、「三谷幸喜(脚本)らしくコメディ風で、とても史実に沿ったストーリーとは思えないが、それなりにリアリズムを感じさせる」といいます。この大河ドラマについて、若山氏が独自の視点で論じます。
三谷幸喜は天才か
歴史という妖怪は、現代の科学的な頭とツールをもった歴史家がどんなに実証的な研究を深めても、その姿を白日のもとに晒すことはない。 NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、三谷幸喜(脚本)らしくコメディ風で、とても史実に沿ったストーリーとは思えないが、それなりにリアリズムを感じさせるのはなぜだろうか。 史実というものが確定できないものである以上、むしろわれわれはこれまでに語られたさまざまなストーリーが何となく史実として受け入れられていることを積極的に認めるべきではないか。義経は悲劇のヒーローであり、頼朝は非情な政略家であり、弁慶は忠義の人であり、秀衡は情けの人であり、といったことが、長い間に積み上げられた国民的コンセンサスとなっているのだ。それはいわば「文化的史実」であり「第二の史実」である。なぜか北条氏はあまり登場しないのだが、ストーリーにはなりにくいキャラの一族だったのだろう。 近現代のリアリズムを信条とする歴史家、作家、演出家たちは、第二の史実を否定して第一の史実に迫ろうとする。しかし三谷幸喜は初めから、どちらの「史実」も追おうとしないように見える。そして案外そのことが、人間の顔をした生臭い歴史を浮かび上がらせるのだ。ひょっとしたら歴史とはそんなものだったのか。そう思わせるところに、三谷という人の天分がある。
鎌倉は都市ではなくそれ自体が砦である
飛鳥時代から江戸時代まで、日本の時代区分は、そのときの政庁があった場所(政治的中心都市)で示されている。ただ京都には何度も政庁が置かれているので、平安時代、室町時代、桃山時代と、細かく区別されているのだ。飛鳥以前は確たる政庁の場所がなかったのであり、明治以後は時代を細かく認識するため東京時代と呼ばずに元号を時代区分としている。 さてその中で鎌倉だけは、たしかにその時代の政庁があったのだが、天皇の居住地としての都でもなければ、日本の中心的な大都市でもなかった。その意味で鎌倉は特殊な時代であり特殊な都市であった、という視点からドラマを視るのも面白いのではないか。 よく観察すると、鎌倉の地勢は大都市に向いていないことが明白である。鶴岡八幡宮の置かれた山から由比ヶ浜の海まで、実に小さな平場であり、その周囲を、入り組んだヒトデ型の尾根が張り出して囲み、とても大都市となるだけの余地がない。尾根自体が天然の城壁であり、よく知られたいくつかの「切り通し」によって外部に通じている。その坂道を通る者は切り立った両側の崖の上から攻められるので、味方の集結と出陣は可能だが、敵軍が突破するのは容易ではない。さらにヒトデ型の谷間の部分は両側を守られて防御に向いている。これは「谷戸(やと、やつ)」と呼ばれ、いわば鎌倉全体と細かい谷戸と、二重のバリアーに守られる地形である。 つまり鎌倉という土地自体が砦なのだ。初めから戦闘のための拠点として選ばれたのであり、都にするつもりはさらさらなかったのである。よほど関東の地形を知り尽くし兵法につうじた知恵者による場所の選定であったことは明らかだ。 そして彼ら(知恵者とその周辺の人物)は、源氏と平氏の戦いが、日本全国の武士たちを巻き込む長期的な戦争となることを予想していた。京都や福原を中心にしてそれまでの天皇と貴族勢力を背景とする平氏に対して、関東に基盤を置きながら全国の地場勢力を結集する源氏という長期戦略をもっていた。 いわば鎌倉は、京都の貴族に対する武家の象徴としての軍事拠点であり、平氏に代わって朝廷に取り立てられようというのではなく、決して殿上人に尻尾を振らないという意志の結晶としての砦であり幕府なのだ。義経の天才的兵法が早々と平氏を滅ぼしたのはむしろ誤算であった。それが、官位ではなく「鎌倉殿」という呼称によった理由であり、主たる合戦に臨んでもまた平氏滅亡のあとも頼朝が鎌倉の地を離れなかった(離れられなかった)理由であり、後白河院に取り込まれた義経を鎌倉に入らせなかった理由でもある。「すわ鎌倉」という言葉が武家集結の合言葉(非常事態に対応すること)のようになっているのもそれを表している。