安倍元総理銃撃に思う日本文化の深淵 テロリズムと大和魂
安倍晋三元総理が参院選の演説中に銃撃されて死亡しました。報道によると、殺人容疑で送検された山上徹也容疑者は、母親が信仰する旧統一教会への恨みが動機であると供述しているようです。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、今回の事件について「日本社会の文化構造が一種の『ネジレ』を起こしているようにも感じる」といいます。若山氏が独自の視点で論じます。
怨恨か思想か
安倍晋三元総理が凶弾に倒れた。犯行は元総理への政治信条に対するものではなく、ある宗教団体(旧統一教会)に対する私的怨恨によるという。 最近の日本は、周辺海域はきな臭く、巨額の財政赤字を抱え、人口は減少の一途、新型コロナウイルスもなかなか収まらない。にもかかわらず政治状況は、安倍一強から自民一強がつづき、大規模なデモや暴動があるわけでもなく、治安が悪かったとはいえない。それだけに元総理を死に至らしめた凶弾は、青天の霹靂というべきか。「今の日本でこんなことが…」と思ったのは僕だけではないだろう。 しかし振り返れば、戦後においてもテロにあった政治家は少なくない。さらにさかのぼれば、幕末には勤皇の志士が幕府の要人を狙うテロがつづき、明治になっても不平士族、自由民権の壮士の争乱があり、その後も、伊藤博文、原敬といった総理大臣(あるいは経験者)が暗殺され、昭和(戦前)には、血盟団事件から2・26事件まで、軍部の絡んだ組織的な皇国思想のテロがつづいた。考えてみれば、近代日本は政治テロとともに進んだのであり、実際にそれが国を大きく動かしてきたのだ。 そして戦後、米ソ冷戦を背景として、労働組合によるストライキが頻発し、日米安保をめぐっては60年に全学連のデモが国会に突入、70年前後には全共闘と過激派の運動から赤軍派の武装闘争にまでつながり、そういった紛争の中でテロリズムも発生した。だが最近は、そういった政治的な騒乱はすっかり影をひそめ、要人を襲うテロがあっても、個人的な犯行が多かったように思う。 とはいえ今回の事件は、当初考えていたほど単純なものではなさそうだ。地の底で何か文化的なマグマが動いているような気もする。個人的怨恨とはいえ、文化的に掘り下げてみると、怨恨の裏には思想があり、思想のもとには怨恨があるものだ。しかもそこに旧統一教会という宗教団体が絡むことによって、日本社会の文化構造が一種の「ネジレ」を起こしているようにも感じる。