『鬼滅の刃』ブームに考える「怨霊」の日本文化
映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』の公開11周目までの興行収入が、これまで首位だった映画『千と千尋の神隠し』を上回りました。新作アニメ化計画が進行中という報道もあり、まだまだ鬼滅ブームはおさまりそうにありません。 なぜ日本に「マンガ・アニメ文化」が生まれ育ったのか(上) 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、「『鬼滅の刃』は日本の伝統文化を背景にしている」と指摘します。ここでいう日本の伝統文化とはいったい何でしょうか。若山氏が独自の「文化力学」的な視点から論じます。
鬼滅ブーム
『鬼滅の刃』というマンガとアニメが大ブームだ。何冊か買って読んだ。テレビでも少し見た。鬼たちと剣士たちの戦いの物語だが、鬼にもそれなりの「人格(鬼格)」があって、善良な人間が鬼とならざるをえない事情が描かれているところが、単なる勧善懲悪とは異なるのだろう。子供のころからさまざまなマンガを読んできたので一家言あるのだが、ここで作品に対する感想はさておき、「鬼」というものを、日本文化の特徴としてとらえてみたい。 「鬼」とは、人間に似た姿であるが人間を超えるすさまじい力をもつ、神秘的で恐ろしい存在である。しかし単なる悪魔ではない。鬼は人の変異体であり、誰の中にも潜在する要素なのだ。また人が鬼に襲われることによって鬼になるというところは、ゾンビの話や、新型コロナウイルスのような感染症にもつうじる。 日本各地にさまざまな伝承があり、角を生やし腰蓑だけの姿で金棒をもつというのが通俗的なイメージであるが、もっとも普遍的なのは、人間が強い怨念を抱いて死ぬことによって「怨霊」と化し、鬼となって現れるという解釈だろう。
日本文化の三つの怨霊「学才、武力、血筋」
日本には3大怨霊というものがある。 菅原道真、平将門、崇徳院(崇徳天皇)である。 菅原道真は、学問、特に文章に優れ、右大臣として平安王朝の全盛期を支えた政治家だが、その図抜けた能力と天皇の寵愛を妬んだ藤原貴族によって謀反の疑いをかけられ、太宰府に左遷されたまま没する(903年)。死後、道真をおとしいれた者たちに次々と厄災がふりかかったことから「天神」として祀られる神となった。 平将門は、関東における平氏の武力紛争を実力でおさめたが、結果として朝廷に逆らうこととなる。やむなく「新皇」を称して決起し、官軍に敗れて首を切られる(940年)。その首が天高く飛びまわり人々を恐れさせ、鎮魂の神社がいくつか建てられている。東京・大手町の「首塚」も有名だ。『将門記』には、道真の霊魂が現れて将門に「新皇」の地位を授けたとされ、道真の死んだ年に生まれた将門を道真の生まれ変わりとする説もある。荒俣宏の『帝都物語』にも登場する。 崇徳院は、和歌に優れていたが、鳥羽上皇と後白河天皇の権謀術数に翻弄され、また没落する藤原氏と台頭する平氏や源氏との陰謀や戦闘にまみれて、政治の実権を握ることができないまま四国の讃岐に流される。仏教の写経に専念して赦しを得ようとしたがこれを拒否され、一説には夜叉のような姿となって「日本国の大魔縁」となると血書して没した(1164年)といわれる。平安末期のさまざまな混乱がその怨霊によるものとされ、後白河院はその鎮魂に努力した。天皇家史上最大の怨霊であり、明治天皇も、昭和天皇も、崇徳院の御霊に勅使を送って平穏を祈願している。 この3大怨霊はそれぞれ、日本にありがちな「怨念の型」を示していると思われる。道真の怨霊は、官僚権力に対する「学才の怨念」を象徴する。能力があるために、かえって既得権益を守ろうとする凡庸な人たちにうとまれるのは日本ではよくあることだ。将門の怨霊は、奈良あるいは京都といった都の貴族が常に「東国」を兵力と労働力の供給地としてきたことから、都に対する「東国の怨念」、貴族政治に対する「武力の怨念」を象徴する。崇徳院の怨霊は、天皇制における最大の問題点ともいうべき摂関政や院政における「血筋の怨念」を象徴する。日本という家社会では融和と調和がたっとばれ、並外れた学才や武力はうとんじられ、政治や企業ではいまだに血筋がものをいうのだ。 こういった怨霊が平安時代後半に集中しているのは、文化的な神秘主義の時代であったからだろう。仏教は奈良時代の国際思想から転じて密教化し加持祈祷の道具となり、日本古来の神々と結びついて神仏習合が進む。また中国の道教思想を背景として安倍晴明で有名な陰陽師たちが活躍した。