『鬼滅の刃』ブームに考える「怨霊」の日本文化
一神教と多神教
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった一神教の世界では、神が善であり、全能である。信仰することによって救済があり、しなければ地獄がまっている。他教は邪教として排斥するから、戦争にもなる。一神教は一つの原理に収斂する一元的な思想であり、ゾロアスター教やマニ教やグノーシス派も東洋的二元論として排斥される。ましてや、日本にあるような鬼とか怨霊とかはことごとく成敗されて、跋扈する余地はない。鬼や怨霊は、多神教の文化においてこそ生まれたのだろう。 仏教はブッダという優れて哲学的な開祖に収斂する思想という意味では、一神教的であるが、東洋の多様な民族と風土と文化に受け入れられる過程で、各地の神々と融合するので、一神教と多神教、双方の要素があり、中世の日本では「多様な怨霊と仏教的無常観」とが葛藤する物語を生み出している。 近現代文明の基本思想ともいうべき自然科学は、インドや中国や日本のような多神教的な世界ではなく、西欧キリスト教社会という一神教的な世界に誕生したと思われるかもしれない。しかし自然科学はもともと古代ギリシャという多神教の世界に萌芽したのだ。そう考えれば、近現代文明の中核たる自然科学はむしろ、多神教の世界に誕生し、一神教の世界で鍛えられ、宗教を乗り越えようとする世界で発展したのだといえよう。つまり科学とは思想というより、それを動かす方法であり動力なのだ。東洋とか、西洋とか、一神教とか、多神教とか、そういった区別を超えるものだ。
怨霊と自然科学
僕はよく怨霊の話をするので、国立大学の工学部で飯を食ってきたくせに非科学的なことをいう、と批判される。中学生のときに知ったニュートンの運動方程式とダーウィンの進化論が圧倒的な世界観を形成したので、科学的なものの考え方が基本にあることは疑えない。しかし人間の怨念や怨霊というものが、この国に脈々たる文化を成していることも否定できない事実なのだ。また世界の科学者がこぞって宗教を否定しているということもない。むしろ科学者の多くは崇高な観念に惹かれるところがあり、俗物的な人間よりかえって、宗教に敬意を払うものだ。 つまり僕は科学的な人間ではあっても、科学主義者ではない。科学主義には怖いところがある。たとえばヒトラーは民族の優越を実現するために最大限科学を利用し、社会主義国もたとえば「宗教はアヘンである」としてこれを否定した。つまり科学原理主義は宗教原理主義と対極にあり、同様に危険なものである。 しかしまっとうな科学を否定しようとする神秘主義や、それによって利益を得ようとするものに対しては厳しい目を向けるべきである。そういったカルト集団や詐欺集団が後を絶たないことは、日本人がこの点に少し甘いと思わせる。