なぜフランス文化とイスラム文化は風刺画を巡って争うのか 触れてはならない「文化的逆鱗」
中東の各地で、フランスのマクロン大統領への抗議が広がっているようです。預言者の風刺画を擁護する姿勢に反発しているもので、一部のアラブ諸国ではフランス製品の不買運動などにもつながっているようです。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏はこの問題について「文化的な価値観の根本に触れる問題が横たわっている」と言います。若山氏が独自の「文化力学」的な視点から論じます。
文化的逆鱗
太平洋の向こうでは史上最悪と評される大統領選、こちらでは日本学術会議をめぐる不毛な水かけ論が展開される中、少し離れたところでは、歴史的文化的な意味で大きな事件が起きている。 フランスの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」がイスラム教の創始者(預言者)ムハンマドの風刺画を掲載したことに対して、マクロン大統領が「表現の自由を守る」と擁護の姿勢を示したことから、全世界のイスラム教徒のあいだに、フランスに対する怒りが広がっているのだ。この週刊紙の風刺画によるトラブルは前にもあったことだが、今回、フランス製品の不買運動が起こり、トルコのエルドアン大統領は「イスラム教の価値観への攻撃」と訴え、南仏のニースでテロ事件が起こり、親日的なことで知られるマレーシアのマハティール前首相は「イスラム教徒にはフランス人を殺害する権利がある」とまで述べている。 日本から見ていると、フランスが「なぜそこまで表現の自由にこだわるのか」、イスラム社会が「なぜそこまで風刺画にこだわるのか」という疑問にぶつかる。そこにはフランスという国と、イスラム教という宗教の、文化的な価値観の根本に触れる問題が横たわっているのだ。 人間には、個人にも、また集団にも、触れてはならない「文化的逆鱗」のようなものがある。
フランスにおける表現の自由
僕らは、18世紀末のフランス革命が近代社会の幕を開けたと教えられた。 働く農民の背の上に貴族と僧侶が乗る有名な風刺画は、たしか教科書に載っていた。その絵に示されるような封建的特権階級が支配する社会から、市民(ブルジョワジー)を主体とする社会へと転換し、平等な個人という概念が確立されたのだ。たしかに「自由・平等・博愛(友愛)」という革命の標語は、近代個人のあるべき理想を表す適切な言葉だと思われた。 革命後の大戦争の張本人であるナポレオンが英雄扱いされているのも、彼の軍事力が、ナポレオン法典とも呼ばれる個人の権利を基本とする近代民法の社会をもたらすとみなされたからだろう。いまだにヤード・ポンドという伝統的な単位に固執するアングロサクソンに対して、フランスはメートル法を推進し、世界の度量衡が統一され、距離と時間と質量との単位系における変換計算が可能となり、近代物理学の基盤が整ったのだ。 フランスという国家には、近代世界の、理念としての中心、普遍性の中心という意識が強く存在する。原子力技術、飛行機産業などで、アメリカに対抗しようとするのもそういった意識からであろう。イギリス経験論に対する大陸合理論も、フランスの哲学的合理性が基本であり、構造主義や記号論などポストモダン思想(哲学)も、基本的にはフランス語によって推進されたのだ。そこには英語や日本語には希薄とも思われる論理性が感じられた。 アメリカと中国の現実主義が、ギスギスした実利の衝突におちいろうとする今日、フランス文化がもつ普遍性と合理性にはそれなりの存在意義があると思われる。また、フランス語圏は絵画、ドイツ語圏は音楽、ロシア語圏は文学と、それぞれ異なるジャンルの芸術に優れていて、近代日本はそれを「いいとこ取り」しているのだ。 そう考えれば、風刺画とはいえ「絵画的表現の自由」を死守しようとする大統領の姿勢をフランス国民が支持するのも理解できないわけではない。彼らにとってはそれが「命がけで守るべき価値」なのだ。