自民党総裁選というメディアの戦争 「人格なき発言」の時代の民主主義とは?
街角・茶の間・個室
民主主義は教育された個人としての市民によって成立するという考え方があるが、僕は必ずしもそう思わない。人間とは、どうしようもなく大衆的なところがあるもので、民主主義もまた大衆的な性格を免れないのである。 以前この欄で、メディアと大衆との関係の変化を「街角の大衆(テレビ以前)」「茶の間の大衆(テレビ時代)」「個室の大衆(ネット時代)」という言葉で表現した。メディアを活字とか映像とかではなく「人の空間」としてとらえたのだ。 伝統的な政治形態においては街頭演説が重視され、候補者は「街角の大衆」に熱く語りかけた。古代ギリシャのアゴラ以来の西欧型民主主義の原理である。日本ではそれに加えて、前回書いた「政治的血脈と地脈」が存在し、永田町はそれを反映して、限られた人たちのムラとしての人間関係すなわち「私的集団性」が重視される。 一方、テレビや新聞の前にいるのは「茶の間の大衆」であり、老若男女が混在し、公的な論理が支配するだけにタテマエになりがちである。討論会などにおいても言論の内容とともに容姿と雰囲気が重視されるが、永田町の論理よりは公に向かって開かれた存在である。 そして、インターネット特にSNSに参加するのは「個室の大衆」である。スマホは個室のモバイル化だ。参加者はリアルの空間において孤立しているだけに、ホンネが露出して激しい振幅がある。時にいわゆる炎上が起きる。「私的集団性」がそのまま増幅され、その意味で永田町の論理につながるものがある。
「人格なき発言」の時代
これまで、テレビは「茶の間=タテマエ」、ネットは「個室=ホンネ」と書いてきたが、最近、インターネット特にSNS上の書き込みはホンネという言葉だけでは語り切れないものがあるように感じている。 本来、人間の「発言」というものは、公的な会議やメディアにおいても、私的な酒場や井戸端においても、多かれ少なかれ「人格」にかかわるものである。リアルの世界では、人格が発言し、発言が人格をつくるのだ。しかしSNS上の匿名の書き込みには人格がない。「人格なき発言」がそのまま公的な場に拡散するのである。テレビや新聞や講演など公的な場における発言には、ある種の専門性があり、常に「公正であれ」という圧力を受けているが、SNSにはそれがない。それはこれまでのような意味での「発言」とはいえないのではないか。 いわば人間の「心」の一部が直接表出しているのである。 「心」というと美しいようだが、実は醜いものでもある。人間の「心」が強く固執するのは他者に対する「愛情と憎悪」であり、この二つは表裏一体なのだ。ネット特にSNSにはその「むきだしの愛憎」が露呈する。発信対象に対する「偏愛と攻撃の言葉」となって固定され拡散される。SNSがオタクやイジメとともに語られるのはそのためであろう。政治的なコメントにも、強い愛国精神とともに敵視される国への攻撃性が現れる。またそれは、芸能人や政治家にはもちろん、最近は皇室にも向けられる。