自民党総裁選に見る「孫たちの政争」 「血脈と地脈」の日本政治
9月17日に告示された自民党総裁選。河野太郎行政改革担当相、岸田文雄前政調会長、高市早苗前総務相、野田聖子幹事長代行の4氏が立候補を届け出ました。29日に投開票され、菅義偉氏の後任となる新総裁が決まります。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は今回の総裁選を「孫たちの政争」と指摘します。次期衆院選の自民の「顔」選びについて、若山氏が独自の視点で論じます。
候補者の影に隠れた人物たち
今回の自民党総裁選は、河野太郎、岸田文雄、高市早苗、野田聖子、四氏の戦いとなっているが、その裏に二人の人物が見え隠れして、実は麻生太郎、安倍晋三、河野太郎、この三氏の暗闘となっているようだ。新聞やテレビでもそういう見方をする専門家がいる。河野候補は麻生派に属するが全面的な支持を得ているわけではない。安倍氏は高市候補を推しながら、実は麻生派も安倍(細田)派もかなりの人が岸田候補に肩入れしているという。 そしてこの麻生、安倍、河野の三人は、戦前、戦後の政治史において、激しい政争を演じた吉田茂、岸信介、河野一郎の孫なのだ。いずれも超大物政治家であった。この総裁選は「孫たちの政争」である。マスコミは選挙の票読みに明け暮れているが、ここではこの三人の祖父たちの、太平洋戦争をまたいだ思想と行動を追うことから、今回の総裁選の性格を読み解いてみたい。
祖父たちの戦前戦後
麻生太郎の祖父吉田茂(1878ー1967)は、父親の出身地である高知県(かつての土佐藩)を選挙区としている。東京帝国大学を卒業して外務省に入り、中国大使を長く務めたが、牧野伸顕(大久保利通の子で岩倉使節団にも加わり、外交で活躍した親英米派の元老的政治家)の娘をめとり、親英米派であった。英国大使となって日独伊三国同盟に反対し、太平洋戦争末期には和平工作に動いて一時投獄されている。戦後は、GHQのもとで総理大臣として復興に尽力し、1951年サンフランシスコ講和により独立を果たした。政党人を信用せず、池田勇人、佐藤栄作など優秀な官僚を政治家に登用し、その薫陶ぶりは吉田学校と呼ばれた。娘は筑豊の炭鉱財閥麻生家の太賀吉に嫁ぎ、その子が麻生太郎である。いわば吉田は、戦後日本の基礎を固めた政治家である。 安倍晋三の祖父岸信介(1896ー1987)は、山口県(かつての長州藩)出身。東京帝国大学時代、興国同志会(東大の右翼思想グループ)に属し、上杉慎吉、北一輝、大川周明など、5・15事件や2・26事件の背後にいた国家主義思想家に私淑していた(参照・立花隆『天皇と東大』文藝春秋)。官僚時代は満州経営に辣腕をふるい、太平洋戦争のときには東条内閣の商工相として戦時経済を担う立場であった。そういった経歴から敗戦のあとA級戦犯被疑者として巣鴨拘置所に拘置されたが、不起訴となって釈放された。政界に復帰してからは、鳩山一郎、三木武吉、河野一郎などと組んで打倒吉田茂に動き、短命に終わった石橋(湛山)内閣のあと総理となって、日米安保改定に取り組んだ。これに対する全学連などの猛烈な反対デモ(いわゆる60年安保闘争)を受けて身を引いたが、その後も、自民党内に隠然たる力をもちつづけ「昭和の妖怪」とも呼ばれた。いわば戦前と戦後の国家思想を生き抜いた、運命の政治家である。 河野太郎の祖父河野一郎(1898ー1965)は、神奈川県の豪農に生まれ、早稲田大学政治経済学部時代、箱根駅伝で活躍した。朝日新聞社を経て政界入り、立憲政友会に所属、戦前から鳩山一郎を担いだことがあり、戦後は大野伴睦、岸信介らと鳩山を担いで吉田に対抗した。日ソ交渉と新東京国際空港の立地選定では重要な役割を担った。反骨精神が強く、その強引な手法は「横紙破り」と呼ばれた。弟の河野謙三は参院議長を務め、次男の河野洋平(太郎の父)は自民党総裁であったが総理ではなかった。一郎は、いわば典型的な党人派の反官僚政治家である。