稲垣謙一
ライブハウスは「濃密最前線」じゃなきゃ面白くない――感染判明で店名公表、借金2億円の再出発【#コロナとどう暮らす】
2020/06/28(日) 17:00 配信
オリジナル経営するライブハウスで新型コロナの感染者が判明――。「株式会社ロフトプロジェクト」の創業者・平野悠さん(75)は、葛藤の末に店名を公表し、会長職を辞した。休業後の赤字は毎月5000万円にも上った。「頭がぶっ飛びましたよ」という一方で、50人の雇用を1年間は死守すると誓った。新型コロナに襲われたライブハウスで何が起きていたのか。2億円を借金し、再出発する平野さんが取材に応じた。(取材・文:宗像明将/撮影:稲垣謙一/Yahoo!ニュース 特集編集部)
避けられなかった店名公表、そして会長辞任へ
4月1日の深夜、平野悠さんの電話が鳴った。「深夜の電話が良い知らせのわけがない」。そう予感しながら電話に出ると、株式会社ロフトプロジェクトの社長である加藤梅造さんが、東京都渋谷区のライブハウス「ロフトヘヴン」について話しはじめた。
「『まさか……?』と言ったら『感染者が出ました』と。愕然としましたね。その日は眠れなかった」
ロフトヘヴンでの感染者の発生は、3月20日。ロフトヘヴンは椅子席形式のライブハウスで、当日は本来のキャパシティーの半分の50席にして「三密」を避けていたが、それでも感染者が出た。
「『よりによってうちの店か!?』と思いました。2月に大阪のライブハウスでクラスターが発生した時は、店名が公表されて大バッシングになっていたし。ただ、保健所から知らされたのは出演者の感染だったので、この件を公表するかどうか迷いました。ただ、その日に店に来ていたというクドカン(宮藤官九郎)が感染したというニュースがあって、これは他のお客さんにも広がっている可能性があると思った。それで店名を公表して、僕はけじめをつけるために会長を辞任したんです」
3月20日の出演者のうち2人が感染していた。客席に来ていたという宮藤さんも感染を発表し、バーカウンターで働いていたスタッフもその後のPCR検査で陽性が判明した。さらに、地方から来場していた観客2人も感染し、その1人の同居家族の感染も報道された。新型コロナウイルス「COVID-19」の猛威は想像を超えるものだった。
平野さん自身も、激しい逆風にさらされた。4月11日放映の『報道特集』(TBS系)の取材に応じた結果を苦笑して語る。
「『撮影のためマスクをしないでください』と頼まれて話したら、『あの人はマスクもしないでしゃべってる』って視聴者に叩かれたんだよ」
創業50周年目前での「事件」
平野さんがジャズ喫茶「烏山ロフト」をオープンしたのは1971年。常連客の学生の中には、若き日の坂本龍一さんもいた。1973年にはライブハウス「西荻ロフト」をオープンし、以降、約20軒のライブハウスを作り、日本のライブハウス文化を育て上げてきた。
今回の撮影は、1999年に東京都新宿区歌舞伎町へ移転した「新宿ロフト」で行った。2019年には、古くからロフトに出演してきた山下達郎さんがスペシャル・ライブを新宿ロフトで開催。現在、新宿ロフトが展開している存続プロジェクト「Forever Shinjuku Loft」には、布袋寅泰さんやBUCK-TICKもコメントを寄せている。ロフトは、ミュージシャンや音楽ファンに長年愛され続けてきた。
「ライブハウスは、今は市民権を得ていますよ。僕が西荻ロフトを作った時は、東京には一件もライブハウスがなかったのに、今はちっちゃな街にもある」
そして、ライブハウス文化が成熟してきたタイミングで、新型コロナウイルスの感染拡大は起きた。
「今はCDが売れない。ミュージシャンはライブを面白くするしかないから、ライブは最高に面白くなっている。そういう状況の最中での事件でした。でも、レコードや配信は、僕から言わせれば『経験』。現場でライブを見て、『今日の演奏はどうだった』って話したり、ときには社会運動に向き合ったりすることも含めて、それこそがロックであり、『体験』なんですよ」
当初の赤字は毎月5000万円、それでも50人の雇用は1年死守
会長は辞任したものの、平野さんは驚くべき決断をした。正社員50人の雇用を、1年間は死守するというのだ。
「店が12軒あって、赤字は当初、月に5000万円。それを経理から聞いた時は頭がぶっ飛びましたよ。もちろん今はいろいろ削って経費は少なくなってきたけど、それでも半端じゃない。この新宿ロフトの家賃は月320万円で、いろんなのを入れると370万円。他の店もだいたい100万円を超えますね」
かつてはサザンオールスターズのメンバーも、当時存在した「下北ロフト」でアルバイトをしながら出演していた。
「昔はライブハウスなんて、ロック好きの学生が2、3年働いて、就職して辞めていったんですよ。でも、今はみんな結婚したり、子供を持ったりしているから、切るわけにはいかない。今クビを切られたら就職先なんてないでしょ?」
ロフトプロジェクトの12店舗は営業再開に向けた準備のかたわら、有料配信番組と飲食物のテイクアウト販売にも注力し、6月だけで200番組を配信する。ただ、それだけではとても全員の「食い扶持」を賄うことはできない。
「国金(日本政策金融公庫)と保証協会(信用保証協会)を通じて、2億円を調達したんだ。これで1年は持つ。返済するのに30年かかるけど、僕はもう70歳を過ぎてるんだから、その頃には死んでいる(笑)。みんな安月給だった分、そこそこ内部留保もある。僕が50年間溜め込んだ金もある」
それにしても、新型コロナがなければ、平野さんは悠々自適な老後を迎えていたはずだ。ところが平野さんは、そんな「老後」を笑い飛ばす。
「一番僕が儲かるのは、今事業をやめることなんだよ。店の保証金も全部返ってくるし。でも、僕の金を全部使い切ってしまうんだよ。それは会社で儲けた金だから。僕はこれから老人ホームに行くから、その金まで取られちゃったらかなわないけど、それ以外は全部なくなったって問題ない。70歳を過ぎるとそう考えるんですよ(笑)」
このままでは潰れるしかない、でもどこかで現状はぶち破れる
学生運動を経験した世代の平野さんは、政府に休業補償を求めることにも抵抗があったが、加藤さんたちは声を上げ、政府の家賃支援給付金や東京都の感染拡大防止協力金を受け取ることを選んだ。では、現在多くのライブハウスがクラウドファンディングを行い、音楽ファンに支援を求めているのは、ふたりの目にはどう映るのだろうか。
「一生懸命やっているのに文句を言う気はない。でも、どうなんですかね、同情票を集めて」(平野さん)
「一時的にはいいと思うんですけど、この先ライブハウスってずっと大変じゃないですか。お客さんもまだ満員にはできないし。1年以上この状態が続く可能性があるのに、クラウドファンディングでみんなすでに疲れていると思うんですよ。だからもうお客さんには頼れない」(加藤さん)
徐々にソーシャルディスタンスを意識したライブが再開されており、ロフトもイベントを再開予定だ。ただ、一度、感染者を出した事実は重くのしかかる。
「ライブハウスは『濃密最前線』じゃなきゃ面白くない。でも、うちからもう一回感染者を出しちゃうのは怖いから、濃密ライブをやるのは、やっぱりすべてのライブハウスで一番最後だな」(平野さん)
平野さんは、感染者が出たロフトヘヴンを含む複数の店舗を閉じようとしたが、加藤さんが反対し、全店舗を維持することを決めた。ライブハウスは店員だけのものではないからだ。ミュージシャンや音楽ファンのものでもある。
「一時は年商10億円になったんですよ。もう中企業じゃないですか。でも、僕は上場にも興味がなくて。もう50年もやりましたからね。働いているみんなの生活がちゃんとできれば、それでいい。加藤を中心に、うちの若手は優秀な奴がいっぱいいるので、オンラインを含めて新しいライブの方法をいろいろ考えているんですよ。その結果、どこかで乗り越えていくんだろうな、と期待するしかなくて。『ぶち破れなかったら潰れればいいじゃん』っていうのは、終わったジジイの僕の言い草(笑)。でも、彼らのおかげで僕も飯を食えてるんだから、そりゃ感謝してますよ。みんな、ただ店を守りたいだけじゃない。だから、必ず新しい挑戦ができるはずなんですよ」(平野さん)
平野悠(ひらの・ゆう)
1944年生まれ、東京都出身。大学生時代の新左翼運動を経て、郵政省に入省。1971年にジャズ喫茶「烏山ロフト」をオープンして以降、1976年オープンの「新宿ロフト」など、ライブハウスを次々に開業。1982年、海外放浪に出かけ、ドミニカ共和国で市民権を獲得し、1990年には大阪花博のドミニカ館館長に就任。ドミニカ撤退後、1995年には初のトークライブハウス「ロフトプラスワン」をオープン。2020年に「定本ライブハウス『ロフト』青春記」「セルロイドの海」を同時刊行。