コロナ禍がきっかけでリモートワークが進んだ。いま現在も、在宅勤務を続ける人は珍しくないだろう。「会社に行くのも仕事のうち」。こう信じていたものが、通わなくてもあっさり仕事が進んでしまうことがわかった。まるで「魔法」が解けたかのように。コロナ禍の余波は今後も続くだろう。そんななか、小規模な企業を中心に、オフィスを解約・縮小する動きが出てきた。(取材・文:Yahoo!ニュース 特集編集部/撮影:岡本裕志)
出社しないのなら、解約しよう
「ここに越してきて1年だったんですけどね」
島田寛基さんは、無人になったオフィスの画像を見ながら、こうつぶやいた。
渋谷区道玄坂にある雑居ビルの2階。島田さんが代表取締役CEOを務めるAI関連企業「LAPRAS」のオフィスには誰もいない。ただただ、壁を白く塗り上げた空間がガランと広がっている。デスクや椅子が撤去されている。フロアの面積124坪。社員30人という規模からすると、かなり広い。
「今後の数年で、採用を積極的にやって社員を増やそうとしていたんです。人が増えても、みんなが快適に働けるようにと備えていました」
そんななか、新型コロナウイルスの感染拡大が起きる。3月末から社員は在宅勤務をするようになり、以降オフィスは無人状態が続いてきた。5月中旬、オンライン会議でのことだった。オフィスの運営責任者からこんな提案が上がった。
「みんな出社しないのなら、このオフィス......解約しませんか」
ここに愛着を持っている社員もいるだろう。島田さんは「反論があるかな」と身構えた。しかし、反応は意外にもあっさりしていて、「まあ、しょうがないよね」というものだった。
会社を立ち上げてから4年。いまのところ、多くのスタートアップ企業と同じように、赤字を出しながら事業の成長に注力している段階だ。目下のコロナ禍で事業に目立った悪影響は出ていないが、今後は何があるかわからない。収入と支出のバランスを見直し、経営をより堅実にしたい。オフィスの賃料は月に数百万円。オーナーとの賃貸契約は年度内残っているが、決断は早ければ早いほど先々の計画は立てやすくなる。
島田さんは5月初旬、真新しいオフィスを解約することに決めた。
全社員がリモート勤務を始めてから、日々の業務に支障は出ていない。連絡はチャットかメールを使う。オンライン会議システムを使えば、複数人数で意思決定もできてしまう。この間、中途採用の社員が2人入った。先輩社員が業務の流れを説明するときに、円滑にいかないことはあった。お互い隣に座っているわけではないから、つきっきりで伝えることは難しい。
「でも、そう大きな苦労をすることもなく、解決できたんですよね」
PR担当の伊藤哲弥さんは言う。お互いに遠隔で画面共有できるツールを使い、テニスのラリーのようにチャットのやりとりを往復し、理解を深めた。普段以上に手数をかけることで足りない部分を補うことができた。
世間でリモートワークの導入に苦労する会社は多い。ところが、やってみたらあっけないほどカンタンにできてしまった。
島田さんの頭にこんなことがよぎる。社員全員でここに集まる必要はなかったのか――。
「実は、起業してからずっと、『オフィスは絶対に必要だ』と信じてきたんです。スタートアップ企業にとっては、なおさら重要なんだと」
7坪のマンションの一室で起業したあのころ、創業メンバーと対面で血の通ったコミュニケーションを続けた。部室のような雰囲気で、これこそが会社の文化をつくる上で重要だと考えてきた。
スタートアップ企業だからオフィスは大事。考えの基礎をつくったのは、本で読んだグーグル社の言葉だった。「オフィスは狭くしろ。そのほうがクリエイティブになれる」――。
「人と人との物理的な距離が近ければ近いほど、コミュニケーションの質も上がる。その分、新しい発想も湧いてくるということでした」
作業場は縮小。コミュ二ケーションに特化した場を
けれども島田さんの会社は、この先何年も「オフィスなし」を貫くわけではないという。
「来年なのか、このコロナ禍が落ち着いたころにもっと小さな場所を借りようと考えています」
オフィス解約にともなって、社員向けにこんなアンケートをとっている。
「フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションが減ったことによる影響を教えてください」
半数からこう返ってきた。
「ややネガティブな影響が出ている(計測可能ではないものの損失を被っている)」
オフィスがない状況に漠然とした不安感を持つ社員はいる。島田さん自身、社員と顔を合わせないまま働いていて、不安に駆られることがあるという。
「こないだちょっときつく言い過ぎちゃってしまった。落ちこんでないかな」
リモートワークでは、仲間の顔色、しぐさを十分に観察することができない。だから新しいオフィスは、社員同士のコミュニケーションに特化した場所にしたいという。社員を集めた会議、イベントができる。あるいは、ふらっと立ち寄って雑談できるような場にしたいという。固定費を削減したいから、作業場所はぐっと絞り込む。単なる作業場では意味がないからだ。
変化は数年がかりで大企業にも波及する
事業用不動産を専門に手がける「CBRE」が行った調査(対象は日本全国の317社)によると、「コロナ禍でオフィステナント賃貸の意思決定に影響があった」と答えたのは、約4割。オフィスの移転・新たな賃賃借契約が「変更・保留になった」と答えている。
確かにSNSで検索をかけると、「オフィスを解約し、フルリモート体制に移行しました」という投稿が目立つようになってきた。なかには、使っていた椅子やデスクなどの備品を気前よく無償譲渡する会社まである。
完全解約でなくとも、オフィスの縮小に踏み切った事例もある。社員数593人、名刺管理事業を手がけるIT企業「Sansan」(東京都・渋谷区)は、臨時のIR報告書で「新型コロナウイルス感染症の拡大による不透明な事業環境等を踏まえ(中略)オフィス賃貸借契約を一部解約することを決議しました」としている。
いま、静かに進むオフィス解約・縮小の動き。これを「チャンス」と見る企業も出てきた。
不動産ITベンチャー企業「ツクルバ」(東京都・目黒区)は、この5月末からオフィス縮小を考える企業向けに、新たなサービスを始めた。同社アセットディベロップメント部・小野ちれかさんは、こう話してくれた。
「問い合わせは毎日来ています。多いのは社員数が数人から数十人規模の小規模事業者さんで、なかには数百人規模の事業者さんからの相談もあります」
オフィスを完全に引き払う事業者に対しては、ツクルバが運営するコワーキングスペースを紹介することもある。オフィス代わりに会社登記ができるし、ロッカーに物品や書類の保管もできる。自社の占有スペースこそなくなるが、賃料は削減できる。「もっと狭いオフィスに移りたい」という要望に対しては、ダウンサイズした物件紹介も行う。直近では、こんな物件を選んだ事業者がいたという。
「20人も入ればいっぱい。そんなバーの居抜き物件でした。作業スペースは狭くなったものの、今後はみんなが一カ所で働くわけじゃないから、問題はないとおっしゃっていました。バーならではの長いカウンターテーブルが、社内外のコミュニケーションを盛り上げるのにいいと喜んでおられました」
新事業を立ち上げた、ツクルバ代表取締役CCOの中村真広さんはこう言う。
「いま、オフィス需要に変化が起きています」
「まず、増床・拡大の傾向に『待った』がかかりました。質の面でも起きています。これまでオフィスに求められてきた『作業』『交流』『保管』の3点です。これからは、『作業』の点が後退して、『交流』と『保管』の意味が大きくなっていくのではないでしょうか」
どういうことなのか。
「リモートワークの普及で、作業に集中するだけなら自宅や社外のどこかでできることがわかりました。ただ、交流はそうはいきません。オンライン会議だけでは限界があります。機密書類やデータ、機材を保管する場所もまだまだ必要です。この意味で、交流と保管が大きくなっていくのではないかと」
変わるオフィス需要。流れは大企業にも波及するのか。不動産情報大手の関係者は言う。
「たとえば来月からとか、来年の春からですとか、大企業がスピーディーに決断するのはそう簡単なことではありません。オフィスにかけているコストが大きいですから、決断は経営判断になります。また、オーナーとの間で複数年契約を結んでいますから、フットワークは重くならざるを得ない」
対して、前出のツクルバの中村さんはこう言うのだった。
「確かにそうだと思います。ただし、この変化は身軽な企業から始まって、今後何年もかけて企業文化に浸透していくんだと思います。いま、大企業でフリーアドレス制を実施し、社屋に社内外の人が使えるコワーキングスペースを設けることも珍しくありませんよね。元々これらは、小さなスタートアップ企業から始まったもので、10年前ならあり得ないことでした。これと同じように、オフィスの変化が進んでいくのではないでしょうか」
長らくオフィスは社員からみて、会社への帰属意識の象徴だった。だからこそ「会社に行くことが仕事」という「常識」も生まれた。けれどもいま、それが揺らぎはじめている。