墓参りは苦痛?捨てられる墓と霊園も縮小の時代
コロナ禍の急拡大を受けて、お盆の里帰りを自粛している人も多いかと思う。おかげで毎夏恒例の墓参りもできない……。
が、もしかして、ホッとしている人もいるかもしれない。お盆の帰省と墓参りは、なかなかの重労働だからだ。とくに墓参りに行けば、単に手を合わせるだけでは済まず、とりあえず墓石を磨いたり、草抜きなど何かと手間がかかる。とくに年をとってくると炎天下の作業は辛いだろう。
高齢化社会を迎えて死者は増えている。だが墓の需要、はっきり言えば売れ行きは落ちているという。なかには親が亡くなっても墓をつくらず、遺骨をずっと自宅に置いたままの家庭もある。おそらく高額の墓をつくる余裕がなくなってきているのだ。そこで遺骨を宅配便で送れば供養します、というお寺も現れた。
あるいは都会に出て世代を重ねると、遠い故郷の墓参りが面倒になる。両親など身近な親族の墓ならともかく、会ったこともない先祖の墓参り……というより墓の掃除のために帰省するのははっきり言って苦痛だ。だからコロナ禍を理由の帰省自粛は、ひそかに歓迎されてしまうのである。
私は『樹木葬という選択~緑の埋葬で森になる』という本を執筆するために多くの霊園の取材を行ったことがあるが、そこで図らずも浮かび上がったのは、霊園危機だった。
お寺を含む霊園経営の立場からすると、墓地(正確には土地ではなく、使用する権利)を購入する人は増えず、墓参りする人も減少傾向。これでは霊園の維持が難しくなる。とくに地方の霊園では、都会に墓を移す改葬や、墓地継承者が不明の放置状態の墓が増加している。なかには墓地の区画の半分近くが放置されているケースもあった。
当然、管理料も支払われないから、霊園経営は厳しくなる。しかし墓石を撤去するには、細かな手続きがあってなかなか大変なのだ。そこで「永代供養」を謳いながらも、最初から継続使用の申し入れがなければ三十三回忌を目途に撤去すると定めているところもある。
そこで遺族に代わって墓守をします、という業者が現れたり、継承が難しいのなら、いっそのこと「墓じまい」をしてきれいに撤去しましょうという呼びかけをする霊園も増えてきた。
では撤去された墓石はどうなるか。仏塔のように積んで供養しているところ(文中写真)もあるが、そんなところばかりではない。そもそも供養塔だって限界がある。それ以上の墓の撤去があると、引き取ってくれる業者にお願いしなければならない。ときに、そうした業者が山中に不法投棄して事件にもなった。
私は大きな墓地を訪れたときは、できる限り裏山を観察する。すると、多くの霊園で捨てられた墓石を発見できた。砕いている場合もあるが、ときには墓石をそのまま積んで、その上にプレハブ小屋を建てたり、石垣代わりにしたりしているところもあった。なんだか墓石で城の石垣をつくったという明智光秀を思い出す。
一方で、過疎地方では、お寺そのものの存続問題が起きていた。地域の人口が減るということは、檀家が減ることを意味しており、それでは法事も減るし、新たに墓をつくる人がだんだんいなくなることにつながる。それに加えて墓参りで訪れる人まで減ったのでは、寺院経営がいよいよ成り立たない。コロナ禍は、お寺まで危機に陥らせている。
そこで新たな埋葬者を呼び込もうと目をつけられがちなのが樹木葬墓地だ。墓石の代わりに樹木を墓標にするのだが、基本的には管理は不要。草刈り程度は墓地側で行うが、樹木は最後は枯れるので継承を気にしないで済む。最初の10年だか20年は墓参りもするが、その後は自然に還るから必要なくなるのだ。やがて森になるわけだから、自然保全にもなる。
だから遠方の都会の人の契約が多いという。地縁は必要ないのだ。なかにはペットも一緒に埋葬してくれることを売り物にして人気が高まった樹木葬墓地もある。なお価格も、石の墓より安めである。
しかし、本来の理念を無視して樹木のほかに石の墓標もあるとか、遠くの1本の木をシンボルツリーと称してその周辺に何十人も埋葬するとか、植えた木が数年で枯れてしまったとか、埋葬後もガッツリ管理料を取る……など、樹木葬“業界”は百鬼夜行、いや百花繚乱状態だ。
どうやら日本の社会は、単に人口減少による縮小だけでなく、墓地の縮小、そして寺院の終焉を迎える時代になってきたようだ。そのうち各地に「お墓のお墓」が登場するかもしれない。
ともあれ、今年の夏は、田舎に帰省してもしなくても、墓地や寺院の行く末にも目を向けてみてはいかがだろうか。
※文中の写真はすべて筆者の撮影。