空港とむら―村の戦後70年(1) 敗戦
“世界”をギュッとひとつかみにしてみたら何が出てくるだろうか、と想像してみた。たぶん巨大空港だろうな。世界中からジェット機が出入りし、地域や民族、人種の異なる人たちが行きかう。そんな空港など世界にいくつもありはしない。最近はやや落ち目だが、成田空港がそのひとつであることは間違いない。
◆貧乏百姓
高度経済成長真っ盛りの1960年代半ば、日本政府が首都圏のはずれに“世界”をつくろうともくろんだ。紆余曲折があって最終的に選ばれたのが千葉県三里塚だった。成田山で有名な成田市につながる畑作地帯だった。皇室財産の御料牧場や県有林もあり、そこで農業を営む農家の多くは戦後開拓で入った開拓農民だった。公有の土地が多く、住民の多くは食うや食わずの貧乏百姓、金さえ出せばすぐ出ていくだろうと考えたのかどうか、1966年、政府は地元に何の話もなくいきなり成田空港建設を閣議決定した。それからちょうど50年が経つ。
“農地死守”を掲げて村ぐるみの闘いが始まった。土地買収地域には開拓村だけでなく、古村と呼ばれた代々続く集落も含まれていた。双方の村は空港建設反対同盟をつくり、一緒に戦った。政府は買収の条件を引き上げながら一戸一戸切り崩し、土地を空港に売って移転する農家が次々出てきた。政府と真っ向から対決する農民闘争を支援するとして、当時学生運動を主戦場としていた新左翼と呼ばれたセクト集団が加わり、闘争にある種の混乱が始まった。闘争を物理的につぶすために全国から機動隊が集められ、激しい弾圧が村を襲った。村人の共同性を基礎に形作られていた地域が壊れ、人が死に、肉体的精神的に傷つき、それでも闘争は続いた。
2016年、三里塚は空港建設閣議決定から50年を迎える。今も土地を空港に売らないで百姓として頑張る農民が少数だがいる。この地で農業を始める若い世代も出てきた。空港反対闘争など知らない20歳代、30歳代の若者たちだ。多くは都市で生まれ育った。所帯を持ち、子どもが生まれたカップルもいる。これから1年、敗戦、飢餓、開拓から始まる三里塚の村の戦後史を追いながら、激動の70年の日本の村を考えてみる。
◆「お国のために」
熱田てるさんは「私の兄貴は中国の中支で、『お国のために』と戦死してるんだ」と話し始めている。戦後、ひと鍬ひと鍬、木の根っ子と格闘し、頑固な笹山を拓き、農地をつくっていった三里塚開拓農民、熱田一(はじめ)さんのおっかあである。熱田一さんは反対同盟(熱田派)代表として死ぬまで同盟の旗を降ろさなかった。それを支えたのはおっかあのてるさんだ。
この言葉に続けててるさんは「私にとって、そのことと空港反対闘争とは大きく関係してるんだよ」と話す。
昭和16年というから、真珠湾攻撃で日本が米国に開戦した年、てるさんの兄に召集令状がきた。同じ千葉県の佐倉にあった歩兵部隊に入隊して一年後、中国・北支に派遣され、中国を転戦したあげく戦死した。頭部貫通銃創で即死だったらしい。
戦争が終わって20年たった頃、この土地に空港を建設することが閣議決定された。
「その20年間、私も百姓を一生懸命やって、子供もできた。戦争が終わってさ、やれやれと思ったところだった。戦争中はカボチャやイモしか食えなくてたんへんだったけど、やっと人間らしい生活ができてきたのに、いよいよ私らの時代がやってきたと思っていたところにさ、またまた『お国のため』というのが持ちださてれてくるのは、どうにも納得いかないと思ったよ」
やはり反対同盟を率いた石井武さんの話も戦争から始まる。
「私は、当時の風潮から1944年、20歳のときに海軍を志願しました」
2002年、空港公団が空港に隣接する成田市東峰の東峰神社の樹木の飛行の邪魔になるとすべて伐採したとき、東峰集落住民が公団をうたえた裁判での武さんの陳述書の冒頭の一節である。
海軍では横須賀の第96艦隊に配属されたが、敗戦間近、船を動かす油も不足し、穴掘りばかりやらされた。敗戦とともに成田市堀之内の実家に戻ったが、次男だったため家を出なければならず、開墾の募集に応じて東峰に入植した。割り当てられた土地は一面の竹やぶだった。
<考文献>
『熱田てる物語―おっかあの三里塚闘争史』実践社2002年
『石井武の生涯』七つ森書館2004年