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戦後80年 自作農体制の創出と解体をめぐって

大野和興ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

 来年2025年は戦後80年です。この間、世の中大きくかわりましたが、もっとも変わったものの一つが農業・農村だと思います。

 戦後農業の構造を端的にいうと「自作農体制」ということが出来ます。自作農とは、自分が耕す農地は自らが所有する農民、ということです。戦前の日本は地主制の国でした。農民の多くは小作農民で、地主に高い地代を払って土地を借り、貧困にあえいでいました。この封建的な土地所有制を民主化するために行われたのが農地改革です。

 敗戦後の日本を統治していた占領軍によって行われた農地改革によって、小作地のほとんどが地主から農民のもとに移転され、日本は自作農の国になりました。アジア太平洋戦争の15年間、日本国家は自国の民衆を含むアジアの2000万人超の人々を死に追いやりました。こうした犠牲の上に生まれたのが日本の憲法であり、耕すものが土地を持てる自作農体制だったのです。

 敗戦5年前の1940年に生まれ、四国山脈のまっただの山村で育った私は、おぼろげながら農地改革の嵐を覚えています。それから85年になろうとしているいま、この国の農業と農村を担ってきた自作農の解体に立ち会っています。戦後80年、私たちは何を作り、何を失ってきたのか、この先に何を見るのか、農の戦後史を繰りながら考えてみます。

 ◆多摩シャモの卵とじ膳が食べられなくなった

 私が住む埼玉県秩父市は、人口6万人弱。毎月二桁で減少が続いている消滅自治体です。秩父の奥は甲州、武州、上州の山塊とつながっていて、その先には信州がある。山また山が重なり、村と村はすべて峠みちでつながっていたのですが、村(集落)そのものがなくなり、山に飲み込まれて消えてしまった道も多い。そんなところにも日常の暮らしがあります。近所の行きつけのご飯屋さん兼飲み屋さんに行ったら、マスターが浮かぬ顔で、「大野さん、自然養鶏の卵を出してくれる生産者、知らない」と聞きます。これまで買っていた養鶏農家が高齢でとり飼いをいをやめてしまったのだというのです。

 この店は表だっては書いていませんが、地産地消を旨としていて地元産しか置かないのです。しかし探しても秩父地域には自然養鶏をしている人が見つからないのだという。ぼくにもあてがなく県外なら知っているけどといったのですが、マスターは首をひねって、実は多摩シャモも手に入らなくなった、といいます。この店の多摩シャモの卵とじ膳は天下一品なので、それが食べられなくなるなあ、とマスターの浮かない気持ちが伝染してしまいました。

 この問答があった数日前、秩父市内で一軒だけ残っている八百屋さんから、地元の生産者がどんどん減っているという話を聞いたばかりでした。この人は秩父市の公設卸売市場で仕入れているのですが、そこに出してくれる地元の野菜やキノコ生産者が次々廃業しているのだという。この八百屋さんは二代目で先代から秩父野菜にこだわり、地元の生産者のことならみんな知っています。そして、「地元野菜が手に入らなくなったら店を閉じるしかない」と話す。そうなると秩父市民は遠距離輸送されてくるものをスーパーで買うしかなくなります。

 「なぜやめるのだろう」と聞くと、歳を取って車の運転が難しくなり、市場に運べないから、という返事が返ってきた。「何しろこの世界では、あの人も歳だから、という人で90代、まだ元気でやってるよで80代、あの人は若いから、で70代だからね」と笑う。

 それにこのごろは気候変動が加わりました。異常な暑さでこれまでの野菜作りの技術では対応できす、作柄異変が続き、出来たものもどこか変で売りものならものが増えているというのです。そこで「いい潮時だからもうやめる」ということになるのです。

 ◆スパーからコメが消えた

 

 この夏、スパーからコメが消えるという考えられない出来事が起こりました。地方小都市の秩父でもスーパーからコメ売り場そのものがなくなりました。9月も終わりに近づいて新米が出回り始めて、コメが買えない事態は落ち着きましたが、値上がったコメ価格はそのまま続いています。

 原因はいろいろいわれていますが、根本的には生産基盤の弱体化にあります。この原稿を書いている最中、コメどころで大型稲作農家がたくさんいる新潟・上越のコメ農民に電話で状況を聞いてみました。今回のコメ不足でコメの販売価格が上がったが、もう農業をやめるという農家は一向に減らず、離農が続いているということでした。しかもその動きは小規模農家だけでなく10ha規模の大経営の農家にも広がっているというのです。

 そのことについては思い当たることがあります。まだコロナがおさまっていなかった22年秋、やはりコメどころの山形・置賜地方で60ha前後の水田を経営する二つの農業法人を訪ねたことがあります。コロナで需要不振が続き米価が下がっているときだということもありますが、2法人ともこれまで集落に頼まれて田んぼを引き受け、経営規模を増やしてきたがこれからはコストがかかる田んぼは整理して規模縮小しなければ法人そのものがつぶれてしまうと深刻な表情で話してくれました。

 同じ頃、秋田県南部のコメどころ雄勝平野では、80haの大型稲作法人が経営規模を一挙に半分に減らしたという出来事がありました。この情報を教えてくれたコメ農民の友人に「作付をやめた40haの田んぼはどうなるの」と聞くと、「高齢化などで作れなくなった田んぼを引き受けていたので、もとの持ち主の返すのだけれど、もう農業はやめていて、機械もないから耕作放棄するしかない」ということでした。山形でも同じ回答でした。

 小規模農家が消えていっているばかりでなく、曲がりなりにも上向発展してきていた大規模経営体が行き詰まりにきているということを示しています。農地改革ができあがった1950年の農家数は589万戸、2024年にそれは約88万戸と15%程度になりました。年間150日以上農業に従事しているこの国の中核的農民のことを基幹的農業従事者といい、2010年に205万人いました。それが10年後の2020年には136万人と約70万人減ってしまいました。この先、2030年には83万人。2050年には36万人になると推計されています。耕す人がいなくなって農地も減り、2020年には437万haあった農地は2030年には392万ha、2050年には304万haとなると予測されています。その多くは耕作放棄地になります。 

 私たちはいま、この国の戦後の食と農と村を支えてきた自作農体制の崩壊に立ち会っているのです。令和のコメ騒動はこうした構造変動の中で起こったことなのだという視点を見失うと間違いを犯します。

 戦争という犠牲を民衆に強いて達成したはずの自作農の国は、その自作農が死屍累々と横たわる国になってしまった。90代のお百姓が引退すると、地域に住む人たちに地域で作られた野菜が届かない。「俺たちはなんて社会をつくってしまったのだ」と思わずため息がでます。

 ◆より早く、より大きく、より強く

 

 1950年代後半、朝鮮戦争という他国の戦争に便乗してこの国で経済成長が始まるとともに、村も農業も急速な変貌を遂げます。“より早く、より大きく”をめざして「農業改革」が進み、1980年代以降は、地球の果てまでを市場競争に巻き込むグローバリゼーションが進む中で、そこに“より強く”が加わりました。そんな価値観が横溢するなかで、小さな自作農が生き延びていけるはずがなかったのです。

 この国の村と農業が大きく変わったのは1960年代以降です。鉄道、道路など物流の基盤づくりがはじまり、新幹線、高速道路が次々建設されました。エネルギーは石炭から石油に切り替えられ、炭鉱閉鎖と沿岸部の石油コンビナート造りが併行して進みます。

 これらのことを成し遂げるには膨大な労働力がいります。農地改革で創られた零細な自作農群は、過剰労働力のプールでもありました。そうした過剰労働力を抱える農業という産業は生産性が低く、そこで生産される食料は割高になり、労働者の賃金引き上げにつながってしまう。労働者を低賃金に引き留めておくには低農産物価格が必須になると為政者や経済界は考えた。そこで出てきたのが近代化農業創設という政策目標でした。目標は農業の生産性向上と農村の人減らし。1961年に施行された農業基本法のもとで進められた農業近代化は、経済成長を農業の側から支える役割を担いました。政府補助金をつぎ込んで農地の区画を大きくし農業の、機械化・化学化、大規模化がを進められたのです。

◆新食料・農業・農村基本法は何を狙うか

 1980年代になると、問題は一国ではおさまらなくなりました。経済のグローバル化の中で、それぞれの地域で農業内部の矛盾が爆発、農民の流動化がさらに激しくなります。1999年、農業基本法は食料・農業・農村基本法に衣替えします。1995年に発足したWTO(世界貿易機関)など世界のグローバル化の流れに即応した体制づくりという意味をもっていました。

 しかしグローバル化の流れに即応するということは、零細で生産性が低い日本の農業にとってみれば農産物が国際競争に組み込まれ、価格はとめどなく下落するということを意味しています。その結果、農業で生きていく見通しが立たなくなった中小規模農民は農業から離脱、この国の戦後社会の基盤をつくってきた自作農体制は崩壊過程に入っていきました。

 そして21世紀、ウクライナ、中東の戦争危機、気候変動による生存の危機が加わり、世界に国家主義た台頭してきます。そうした状況に対応しようと、2024年通常国会で農と食に関する政策理念を定めた食料・農業・農村基本法を改定されました。1961年制定の農業基本法から数えて3番目の基本法とになります。いくつかの特徴を列記すると、

①農地所有・利用の規制緩和をいっそう進めて、農外資本を農業生産の主体に組み込み、巨大経営体をつくる。

②農産物価格はその量と品質に応じて市場で決める。

③AIと生命科学によるイノベーションで生産性を上げ、巨大経営体の生産を支える。

 ここにはもはや独立自営の自作農は存在する余地はありません。さてどうするか。こうなると、単に農業の問題ではなくなります。社会全体のありようや経済の仕組み方を作り直す動きを、それぞれの場で始めるしかないだろうと思っています。

ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

1940年、愛媛県生まれ。四国山地のまっただ中で育ち、村歩きを仕事として日本とアジアの村を歩く。村の視座からの発信を心掛けてきた。著書に『農と食の政治経済学』(緑風出版)、『百姓の義ームラを守る・ムラを超える』(社会評論社)、『日本の農業を考える』(岩波書店)、『食大乱の時代』(七つ森書館)、『百姓が時代を創る』(七つ森書館)『農と食の戦後史ー敗戦からポスト・コロナまで』(緑風出版)ほか多数。ドキュメンタリー映像監督作品『出稼ぎの時代から』。独立系ニュースサイト日刊ベリタ編集長、NPO法人日本消費消費者連盟顧問 国際有機農業映画祭運営委員会。

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