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星寛治さんと有機農業の50年

大野和興ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

 この国で有機農業という言葉が使われる農業の実践が始まって半世紀を超えました。遅々とした歩みながら着実に草の根の実践を積み上げながら今日に至っています。昨年秋から冬にかけ、二つの大きな出来事がありました。一つは有機農業の大先達である農民星寛治さんが亡くなったこと。もうひとつは、その星さんが育ててきた山形県高畠町の有機農業振興が50年を迎え、その記念行事が行われたこと。この二つの出来事に接し、有機農業を考える短い文章を書きました。

星さんがいなくなった

 日本の有機農業運動を作り上げてきた大先達、星寛治さんが死んだ。星さんの死の2週間前の23年11月25日、日本の有機農業運動を、そのはじまりから現在まで主導してきた高畠町の有機農業五〇周年を祝う催しが開かれたばかりだった。星さんが基調講演をするはずだった。聞くと体調がよくないということで、中央から来た学者先生がメインのシンポジウムに切り替えられた舞台を、会場のひと隅でみながらさみしさをかみしめていた。

 星さんは有機農業とは何かを考えるうえで、独特の存在感を放っている。それは有機農業を文化として捉えるという視点である。筆者が星さんと初めて会ったのは一九七二年だった。地域の農業青年が星さんをかついで高畠町有機農業研究会を立ち上げる一年前である。置賜で山形農民大学が開かれるという情報が入った。詩人で地域問題、農業問題、教育問題で鋭い問題提起をしている土着の知識人真壁仁が主導する山形農民大学には、ものを書き考え実践する農村青年が集まっていた。これは行かねばと列車に飛び乗り、その会場で出会ったのが星さんだった。出たばかりの星さんの第一詩集が置かれていた。

 凝縮された言葉の強さに惹かれ、詩集を購入した。手元に星さんが書かれた本が何冊かある。その中の一冊『有機農業の力』(創森社2000年刊)を手にとってみた。日々の土とのふれあい、農作業を通して感じる季節感、自然と人間の相対し方、といった農民の日常が見事に自然哲学として論理化され、言葉として紡ぎ出されている。ここに星寛治さんの有機農業論の真骨頂を読み取ることができる。 

 自然と向き合ったとき、そこには一個の人間しかない。個人の先に地域があり、国はその先にあるに過ぎない。星さんは自主管理こそ有機農業の思想であるとして、すべてをそこから出発する。いま流行りの食料安保論が真っ先に国家を掲げるのとは真逆の思想である。星さんはその思想を「有畜小農複合経営」という形で農法論として体系化し実践する。

 最後に付け加えると、星さんは有機農業を語るとき、恒に平和に言及した。星さんら山形の青年たちの人間形成に大きな影響を与えたものに青年団運動がある。「平和と民主主義」はその核心の一つだった。「彼は六〇年安保反対デモに高畠からでかけた」と同年代を農民として共に生きた山びこ学校の佐藤藤三郎さんはふりかえっている。

(『農民新聞』2024年2月15日号掲載原稿に加筆)

やっぱり単なる有機農業ではなく有機農業運動だよな

ー高畠町有機農業50年に寄せて

 高畠有機農業研究会50周年、おめでとうございます。早いものですね。折々星さんや渡部務さん、亡くなった伊藤幸吉さんをお訪ねし、いろんな話を聞かせていただいたり。タイの農民を連れて務さん美佐子さんの農場や米沢郷にお邪魔して世話になったことなど、あれこれ思い出はつきません。

 高畠に出かけ話をお聞きするたびに思ったのは、ここで取り組まれているのは、単に農業のやり方といったことにとどまらず、地域、ひいては社会を変える運動なんだな、という実感でした。いいかえれば社会変革の運動として有機農業を考える、これが高畠の有機農業に接しながら思ったことです。

 まず時代背景があります。日本で有機農業の実践が動き出した1970年代初頭、日本も世界も激動の時代でした。1960年代末から世界を突き動かした民衆運動の波と、日本における有機農業の動きは無縁ではないと私は独断と偏見で考えています。ベトナム反戦、反差別を掲げた米国の公民権運動、パリの若者の叛乱、緑の運働。日本でも学生の反乱、協同組合運動の新しい波が起こり、ベトナム反戦運動が広がっていました。水俣病、イタイイタイ病、工場からの煙や排水による環境汚染や健康障害に抗し、各地で公害反対闘争が闘われていました。農薬による食の安全への懸念が広がったのもこの頃でした。

 村に目を転じると、60年代、経済の成長にあわせて農業も成長を、と農業の構造改革が国家の政策の中心に据えられ、規模拡大と生産性の向上が至上課題となって機械化、化学化、大規模化が推進されていました。それは、冬の半年、村から男手を奪ってしまう出稼ぎの広がりと、それに伴う家族や集落の崩れ、となって村を覆っていました。機械や農薬による労働災害も多発、新しい「貧困」が農村に押し寄せていました。

 こうした状況に”ノー”を突きつけたのが文字通り地べたから、土からの実践、有機農業でした。有機農業という場合、出てくるのはたいがい個人名です。誰それの農業のやり方、という形でそれは表現されます。しかし高畠では、それは「高畠の有機農業」というふうに呼ばれます。有機農業が面として存在し、地域農業、地域社会を支えているからです。地域の名前で呼ばれる有機農業にあと二つあります。一つは埼玉県小川町。22年9月24日に急逝した金子美登さんが軸になって面の有機農業を創造しました。あと一つが千葉の三里塚。空港にとられる農地の死守を掲げて国家と対峙した三里塚の青年百姓が作り上げた有機農業です。国家に飲み込まれず、自力で立つにはこれしかないと彼らは考えました。

 今この国の百姓も百姓の農業も瀕死の状態です。高畠の、小川町の、三里塚の有機農業実践者が創り上げたモデルが本領を発揮するときだと、これまた独断と偏見で確信しているところです。

(高畠町有機農業50周年記念誌に寄稿)

ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

1940年、愛媛県生まれ。四国山地のまっただ中で育ち、村歩きを仕事として日本とアジアの村を歩く。村の視座からの発信を心掛けてきた。著書に『農と食の政治経済学』(緑風出版)、『百姓の義ームラを守る・ムラを超える』(社会評論社)、『日本の農業を考える』(岩波書店)、『食大乱の時代』(七つ森書館)、『百姓が時代を創る』(七つ森書館)『農と食の戦後史ー敗戦からポスト・コロナまで』(緑風出版)ほか多数。ドキュメンタリー映像監督作品『出稼ぎの時代から』。独立系ニュースサイト日刊ベリタ編集長、NPO法人日本消費消費者連盟顧問 国際有機農業映画祭運営委員会。

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