北条泰時が活躍した承久の乱はなぜ起こったのか?
比企一族との戦い(1203年)、和田合戦(1213年)に続いて、北条泰時が活躍するのが、承久の乱(1221年)です。京都の後鳥羽上皇が、北条義時を追討するため、将兵を集めて挙兵したのです。なぜ、そのような事態となってしまったのか?
遠因として、鎌倉幕府の3代将軍・源実朝の死が考えられます。実朝在世中、朝廷と幕府との関係は良好でした。実朝と御台所との間には子はなく、実朝は後鳥羽上皇の皇子を自分の後継将軍として、鎌倉に迎えたいと考えていました。その交渉も進んでいたのです。
ところが、承久元年(1219)1月、実朝は鶴岡八幡宮において、甥の公暁(2代将軍・源頼家の遺児)に殺害されてしまいます。事件直後、幕府は、後鳥羽上皇の皇子である雅成親王か頼仁親王を将軍として迎えたいと申し出ますが、上皇はそれまでの態度を翻し、皇子の関東下向に拒否反応を示します。良好な関係を築いていた実朝がいるならば話は別だが、実朝亡き今、皇子を関東に遣ることはできないと考えたのでしょう。
親王将軍の誕生は、日本国を2つに割ることになると上皇は危ぶんでいたようです(『愚管抄』)。実朝がもし殺されなければ、朝廷と幕府の良好な関係は続き、承久3年に「承久の乱」という悲劇が起きることは、おそらくなかったでしょう。