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【逃げ上手の若君】足利尊氏が丹波国の武士・久下時重が参陣したことを吉例として喜んだ訳

濱田浩一郎歴史家・作家

集英社の『週刊少年ジャンプ』に連載されている漫画「逃げ上手の若君」が2024年7月から9月まで、アニメとして放送されていました。「逃げ上手の若君」の主人公は、南北朝時代の武将・北条時行(鎌倉幕府第14代執権・北条高時の子。幼名は亀寿)です。元弘3年(1333)、鎌倉幕府を裏切り、後醍醐天皇方に加勢することを決断した足利高氏(尊氏)は、丹波国篠村に陣を取ります。そこにやって来たのは、同国の武士・久下弥三郎時重でした。久下時重は、140・150騎ほどの兵を引き連れ、高氏の前に現れたのです。その旗の紋、笠印には「一番」という文字が描かれていました。

これを不審に思った高氏は、高師直を近くに呼び、こう尋ねます。「久下の者どもの笠印には、一番と書いてあるが、これは元来よりの久下の紋か。それとも、ここへ一番に参ったという印なのか」と。師直はそれに対し「これは由緒ある紋です。彼(久下)の先祖は、武蔵国の住人・久下次郎重光にございます。重光は、源頼朝公が土肥の杉山(神奈川県の湯河原)にて戦をされた時、一番に馳せ参ったのです。それを頼朝公が感心され、もし自ら(頼朝)が天下を保たば、一番に恩賞を取らせようと仰せになった。そして、自ら一番という文字を書いて下賜されたのです。それがやがて久下家の紋となったのです」と回答するのでした。

高氏は師直の言葉を聞き「久下が最初に参ったことは、当家の吉例である」として大層喜んだそうです。「源頼朝公が土肥の杉山(神奈川県の湯河原)にて戦をされた時」云々というのは、石橋山合戦(1180年。源頼朝と平家方の大庭景親らの戦い)のこと。頼朝方の負け戦となりました。頼朝は、敗戦後、安房国に船で逃れることになります。もちろん、頼朝は最終的には鎌倉幕府を開き、大成していくことになるのですが、久下氏が一番に駆け付けたと言われる戦(石橋山合戦)では敗れているので、真の吉例かは疑問と言えるでしょう。ちなみに史書(『吾妻鏡』)には、久下重光が一番に馳せ参じたとは記されていません。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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