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【光る君へ】清少納言も虜になった藤原(中宮)定子の才女っぷりと二人の親密な関係!?

歴ブロ歴史の探求者

藤原道長が活躍した平安時代中期頃は、紫式部や清少納言を始めとする才能あふれる女性たちが多くいました。蜻蛉日記の藤原道綱の母や和泉式部など多くの才女が作品を残していますが、一条天皇の皇后・藤原定子も負けないくらいの才能を持った女性と言われています。人柄も清少納言が虜になるほどで『枕草子』でもたびたび定子をほめちぎっていました。

そこで今回は清少納言が推した藤原定子について枕草子に書かれた記述をもとに紹介していきます。

定子の母も才能あふれる女性だった

藤原道隆の娘として生まれた定子。母である高階貴子は和歌の才能があり百人一首にも作品が選ばれています。そんな母の才能を受け継ぎ、定子の【夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき】の辞世の句が後拾遺和歌集に選ばれました。

性格も良く容姿端麗で完璧すぎる

『光る君へ』では高畑充希さんが藤原定子を演じてます。史実の彼女も容姿端麗で清少納言も初めて出仕した時にウットリしたと枕草子で書いています。ドラマの15話でも再現されていました。

定子一家は父母をはじめ兄妹の伊周・道頼・妹も美しいとされ、自身の夫である一条天皇も美男だったと史料には書かれています。ちなみに光源氏の母・桐壺更衣のモデルではないかとも考えられています。

定子は聡明で優しさを兼ね備えた人柄で、枕草子の【宮に初めて参りたるころ】では、気弱になっている清少納言に気遣いをする定子の様子が描かれています。こうして清少納言はやさしさと高貴な美しさを持つ定子に魅了されていきました。

父・道隆譲りのユーモアセンスも?

全てにおいて非の打ちどころのない定子ですが、枕草子【無名といふ琵琶】の段では、『無名=つまらないもの』とかけてダジャレを言うおちゃらけた場面が描かれています。道隆の娘が後の三条天皇の嫁いだ時に『道隆様は一日中ダジャレを連発していた』とあることから、ユーモアセンスは父譲りだったかもしれませんね。

中宮定子の功績

皇后として定子は、歴史的にどんな功績を残したのか考えてみます。

後宮では一室に各有識者を集めて、文学や芸術などの会話を楽しむ場所を提供していました。これが平安(後宮)サロンと呼ばれる社交場でした。清少納言の他にも選りすぐりの女房達が仕え、その評判の女房達と仲良くなりたい若者たちも集い、定子を中心とした楽しい貴族サロンがそこにはありました。私たちが持っている平安貴族の華やかなイメージは、この定子の作り上げたサロンが原型となっています。

もう一つ紫式部が仕えた彰子のサロンがあります。

定子が世を去り、あの頃の華やかなサロンの復活が求められ彰子のサロンが作られました。紫式部を筆頭に、和泉式部・赤染衛門・伊勢大輔などの才能ある女流作家を輩出しています。

『定子がサロンを作らなければ、後世に残る有名な作品が生まれなかったかも』と考えると、国風文化のきっかけを作った彼女の功績は藤原道長以上に高いかもしれません。

中宮定子と清少納言の密な関係

枕草子での清少納言と定子の関係があまりにも親密なため、二人はまるで恋人同士に思えてきます。定子の指先を見て美しさにウットリし、目があえば喜ぶ、もうこれは恋する乙女そのものでしょう。一方、定子も『私から一番に思われたいかしら?』と清少納言に思わせぶりな言葉を投げかけています。

枕草子のエピソードからは、二人の関係は主従関係以上の親密な関係だったのが汲み取れます。少なくとも清少納言にとっては、定子が生涯ただひとりの敬愛すべき人物だったのは間違いないでしょう。

最終的には貴族間の権力争いに巻き込まれていく定子と清少納言。定子が天皇の中宮としての立場が担保されていたのも、父・道隆の後ろ盾があったからこそ。道隆亡きあと、兄の伊周と藤原道長との間で後継者の座を巡って権力争いが勃発して伊周が敗北すると、定子も居場所を失っていき一族は一気に没落していきました。

『枕草子』には、定子様推しで藤原道隆時代の最盛期が中心に書かれています。もとは、定子を元気づけるために書き始めたもので、ネガティブなことは書かず、面白いことや華やかだった時代のことのみを書きつらねていました。

行き場を失ったあとも、この枕草子を見て定子と清少納言は、あの楽しい日々を振り返っていたのかもしれません。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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