Yahoo!ニュース

『光る君へ』藤原道長死後の彰子はゴッドマザーとして摂関政治を支えていた!?

歴ブロ歴史の探求者

大河ドラマ『光る君へ』の初登場では、自己主張が少なくどこか物静かな女性だった藤原彰子。しかし、皇子を産んでからは政治にも興味を持ちはじめ、父・道長に意見するまでに成長します。実は彼女、道長の出家後に一門を統率して弟、頼通とともに政治を支え、ゴッドマザーとして君臨しました。

そこで今回は道長死後の藤原彰子について紹介します。

『光る君へ』のゴッドマザーフラグ

藤原定子の死後、彰子は養母として一条天皇と定子の遺児・敦康親王を育てます。

一条天皇は敦康親王を次期天皇にしたいと考えており、彰子もその考えに賛同していました。ところが、父・道長の野望によって実現することはありませんでした。

しかも道長はこの決定を彰子に事後報告しており、この時の様子を藤原行成が「彰子が道長を怨み奉った」と記しています。この描写は第40話『光る君へ』でも放送されており、「彰子のゴッドマザーへの伏線か?」と思わせるような場面でした。

二人の天皇の母に…

時は流れ三条天皇から譲位され後一条天皇が即位。当初の東宮は三条天皇の子とされていましたが、三条院がまもなく崩御すると彰子の子・敦良親王が東宮となり、後一条天皇⇒後朱雀天皇と2人の天皇の母となりました。

この時の東宮決定も彰子は敦康親王を求めますが却下されたようです。自分が産んだ子を差し置いて育ての子である敦康親王を東宮にしたい彰子の深い愛が伝わってきます。(もしかしたら彰子に違う思惑があったかもしれませんが…)

こうして2人の天皇の母となった彰子は、政務や人事を後見するまでになりました。

藤原道長の跡を継ぎ摂政・関白の地位についた頼通は、いつも姉の彰子を頼っていたと言います。氏長者は頼通でしたが、道長死後は実質的な天皇家と摂関家の家長としての役割を彰子が担っていくことになりました。

彰子は39歳の時に出家していますが、道長の姉・詮子に次ぐ二人目の女院として彼女以上に影響力を持ち、摂関政治の全盛期を支えます。

院政を始めた白河上皇にも影響を与えていた

ところが、天皇の元に嫁いだ頼通の娘たちに皇子が生まれなかったため、しだいに摂関家の影響力がなくなっていきました。

こうして天皇と摂関家のパワーバランスが変わって白河上皇は院政を開始。その際、完全に摂関家側の人間とて影響力が落ちた彰子であっても、白河上皇は自身の院としての権力を示すためにたびたび彰子の先例を採用したそうです。

院政が始まった頃には既に亡くなっていた彰子ですが、白河上皇の治世下にも彰子の政治力が伺えるほど全盛期の影響力は大きいものだったのでしょう。

自身の子と孫に先立たれ、摂関政治の全盛期から衰退を見てきた彰子は白河天皇治世まで生き1074年に87歳の長い人生に幕をおろしたのです。

参考文献:「藤原彰子」(本郷恵子著、2019年、吉川弘文館)

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

歴ブロの最近の記事