藤原道長・頼通親子以降の藤原氏はどうなったのか?
藤原氏は道長の時代に最盛期を迎え、子の頼通の代まで続きました。
藤原頼通は御朱雀天皇、後冷泉天皇の関白として50年も務めますが、天皇の后となった娘に男子が生まれなかった事や刀伊の入寇・平忠常の乱、前九年の役などの内外の事件が続き、その権力体制が揺らぎます。
後冷泉天皇の次の天皇である後三条天皇が積極的に親政を行うようになると、摂関家の権力が徐々に衰退し、その後、白河天皇を経て院政の時代へと変わりました。
これを機に藤原氏の名前が歴史からあまり出てこなくなります。
そこで今回は、道長・頼通以降の藤原氏はどうなったのか紹介しましょう。
藤原頼通以降の政治体制
道長死後に頼通は約50年の長い間、政治の実権をにぎります。頼通も父に倣い娘を天皇に嫁がせますが、男子が誕生しませんでした。
そして、男子が誕生しないまま後三条天皇が即位。この後三条天皇は父母共に祖父が藤原氏ではない天皇で実に170年ぶりの事でした。しかも天皇は摂関家の政治独占を打破する人選を行い、積極的に親政を進めます。
跡を継いだ白河天皇も同様に親政を行い堀川天皇に譲位し、自分は上皇として天皇の後見役として政治の実権を握りました。御所に院庁(いんちょう)と呼ばれる役所を作り政治を行った事から、この政治体制を院政とよびます。
院政は白河天皇、鳥羽、後白河、後鳥羽天皇と続きますが、この間も摂政・関白が無くなったわけではありません。以前ほどの権力はありませんが、摂政と関白には代々藤原道長・頼通の子孫が就任していました。
武家政権に移り変わっても摂政・関白職は明治維新まで、ある例外を除いては道長・頼通の子孫たちが就いています。
その例外とは、豊臣秀吉と秀次。
秀吉は藤原氏と縁もゆかりもありませんでしたが、後述する五摂家の一つである近衛家の養子になり関白になりました。天下人の秀吉でも、摂政・関白は藤原氏からと言う伝統を守ったと言えます。こうして摂家豊臣家が誕生し、秀頼が死去するまでは一時的に六摂家体制になりました。
藤原氏五摂家の誕生
頼通以降も藤原氏は続きますが平安時代から鎌倉時代にかけて分家し、それぞれの名を名乗ることに。
道長の5代後の藤原忠通の時代に長男・基実、次男・基房、三男・兼実やその子孫達が状況に応じて摂政と関白の職を歴任します。そして、この三人の兄弟の子孫たちが摂政・関白を引き継ぐ過程で、その邸宅を構えた場所にちなんで
- 長男の基実の家は「近衛家」
- 次男の基房の家は「松殿家」
- 三男の兼実の家は「九条家」
と呼ばれます。※ここではまだ三家。
これを見ると近衛家が藤原北家の嫡流と言えるでしょう。
次男の基房【松殿家】は二人の摂政と関白を出しましたが戦国時代には断絶。一方で鎌倉末期に【近衛家】⇒【鷹司家】、【九条家】⇒【二条家】【一条家】と分派します。
これによって鎌倉時代を通じて『摂政・関白を輩出する家』がそろい五摂家と呼ばれるようになりました。
近衛家・鷹司家・九条家・一条家・二条家
藤原氏の子孫・五摂家のその後
その後は豊臣家の例外はありましたが、明治維新に廃止されるまで一貫して五摂家の人間の関白・摂政に就任していました。明治以降は天皇を補佐する役目は皇族が摂政につくことが皇室典範で定められています。昭和天皇は皇太子時代に、父である大正天皇の摂政についていました。
明治維新後の五摂家は、華族の中でも一番上の爵位である公爵になっています。
五摂家以外の藤原氏
藤原氏の子孫たちには、五摂家以外にも存在はします。
西園寺家・花山院家・武者小路家・飛鳥井家なども道長とは異なる家系ですが、藤原氏の流れをくんでいます。
その中でも西園寺家は明治・大正期に首相を二度務めた西園寺公望を輩出しており、その家柄は清華家の一つです。
清華家とは公家の家格の一つで最高位の摂家に次ぐ家格をもつ家柄で、太政大臣になれる家柄でした。西園寺家は、藤原北家の支流の家柄です。
藤原鎌足から始まり1000年以上の月日を受け継いできた藤原氏ですが、歴史のうねりの中で平安時代には権力の中枢として栄え、時には武家政権に翻弄されながら、現代に受け継がれています。