戦国時代の【料理男子】伊達政宗と細川藤孝の料理にまつわるエピソード
織田信長は本能寺の変直前に徳川家康を安土城に招いて豪華なおもてなしをしました。この時に信長は自ら食事の膳を家康の元に運んだと言います。
当時の武士たちは、大切な客人や同盟相手、家臣たちを慰労するために料理を振舞っていました。
もともと武将が料理するというのは珍しい事ではなく、多くの戦国武将たちが料理に関するエピソードを残しています。今回はその中から、伊達政宗と細川藤孝の料理エピソードを紹介します。
戦国一の料理人・伊達政宗
兵糧研究の観点から料理は武将たちにとって必須とも言えるものでした。
中でも有名なのが伊達政宗で、諸説ありますが彼の料理研究家の中から伊達巻き・凍り豆腐・ずんだ餅・仙台味噌が誕生したとも言われています。
特に朝鮮出兵の際に他の武将が持参した味噌は暑さで食べられない中で、政宗の味噌はまったく問題なかったと言う逸話が残っています。
そして、江戸幕府開設後に仙台藩の産業として味噌を普及させようと考え、大規模な味噌を作る蔵が設けられました。これが日本で初めて工業的に味噌を量産する施設だったそうです。この味噌が現代に伝わり仙台味噌として私たちの食卓に並んでいます。
また、兵糧研究だけではなく、人におもてなしする料理にもハマっていた政宗。
『馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理してもてなすことである』
と言った名言も残し、その実力を買われ1630年に徳川家光を得意の料理でもてなしました。政宗は見事な懐石料理を完成させ、家光もそのうまさに感激し政宗の料理の腕を絶賛しています。※伊達氏治家記録
こうして政宗は厳しい乱世を料理で相手の胃袋と心をガッチリつかみ、生き残りを掛けたのかもしれませんね。
文武両道の細川藤孝(幽斎)は包丁の使い手でもあった
当時の宣教師の一人ジョアン・ロドリゲスが書いた『日本教会史』によると、支配階級が身に着けるべき教養として「弓術・蹴鞠・庖丁」を挙げています。
細川藤孝は文武両道の武将とも言われ茶道・歌道・蹴鞠をたしなみ、武術面では塚原卜伝に師事しています。剣術の達人に師事していたからか、藤孝は同じ刃物である包丁の腕前も優れていました。
日本では平安時代に大きなまな板の前で食材に直接触れずに右手に庖丁、左手にまな箸を持ち切り分け並べる儀式「庖丁式」がありました。時代が流れ、鎌倉・室町期には武家にも広まっていたことから、藤孝はこの庖丁式の達人として皆に披露していたのではないかと思われます。
現代でいうところのマグロの解体ショー的なものをやっていたのかもしれません。戦国時代に教養として庖丁が挙げられていることから、日本各地で行われていたようです。
『言経卿記』や『耳底記』には、いずれも招待客の前で藤孝は鯉を捌き振舞ったと記されています。どの記述も藤孝の包丁技術を絶賛しており、達人の域に達していたのではないかと思われます。
実際に藤孝が鯉料理をご馳走になるとき、その料理人の作法が気に入らなくて自身がさばいたエピソードも残っています。その切り口は見事で、まな板の替わりに使った木箱と薄紙には傷がついていなかったそうです。
他にも織田信長が家康のためにデザートを作ってあげたり、山梨の名物郷土料理「ほうとう」は武田信玄が由来とも言われたりしています。
こうした武将たちの料理へのこだわりやおもてなしのエピソードを見ると、人間関係にどう気を遣っていたのかまで垣間見えて面白いですね。