南北朝時代の他にも二人の帝(ミカド)がいた動乱の時代があった!?
「ミカド」が二人いた時代というと真っ先に思い浮かべるのは南北朝時代ではないでしょうか。
南北朝時代は1336(建武3)年、武家政権の鎌倉時代末期に「天皇による親政」を目指した後醍醐天皇による建武の新政が崩壊したことに始まります。
天皇の後ろ盾になっていた足利尊氏が離反して敵対すると、独自に天皇を擁立して北朝を立てました。
一方で後醍醐天皇は京都を逃れ吉野で新たに朝廷を開いたことから、二人の天皇がいる南北朝時代に突入します。
そこで今回は、そんな南北朝以外に存在したとされる「二人のミカド」を紹介します。
奥羽越列藩同盟と2人の帝
ここで紹介するのは、幕末の動乱期に即位して開国か攘夷で国を二分する情勢の中心にいた孝明天皇が若くして崩御された後の明治天皇が即位する頃のお話です。
戊辰戦争が始まると欧米諸国からの介入を危惧した慶喜は新政府に恭順し、江戸城を無血開城します。会津藩(現福島県会津地方)の松平容保も恭順を願い出ていますが、受け入れられませんでした。
それどころか薩長は仙台藩や米沢藩に対して会津藩を討伐するよう命じます。
しかし、両藩は「幕府に任じられただけなのに」と戊辰戦争のきっかけとなった庄内藩や会津藩に対して同情的でした。朝敵認定された庄内藩や会津藩の赦免嘆願を願い出るも何度も拒絶されています。
一方で江戸城無血開城に納得できず、新政府と戦争を継続した幕臣たちも北上。その際、江戸の上野にある寛永寺に入った輪王寺宮(孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父にも当たる)が彼らを匿いましたが敗戦し、東北にのがれました。
新政府も東北をなんとかしようと奧羽鎮撫使が仙台入りして会津討伐をせかしますが両藩は動かず。そんな状況に対し、長州出身の鎮撫使が「奧羽皆敵」と東北諸藩を敵視した内容の密書を書いていました。その密書を見つけた仙台藩士は鎮撫使を殺害しています。
この一件で完全に東北諸藩は新政府と戦うことが避けられなくなり、仙台藩が主導する「奥羽列藩同盟」が結成されました。
とはいえ、全ての藩が一枚岩になっていたわけではなく、新政府に恭順するような藩もあります。
一方で戊辰戦争中、中立状態を維持して平和的解決のための調停役を願い出ていた越後長岡藩(新潟県中越地方)も新政府との交渉が決裂して合流。「奥羽越列藩同盟」に参加しています。
ここに新政府に対し不信感を持っていた輪王寺宮(後の北白川宮)が同盟結成後に会津入りして合流し、同盟の盟主として立つことになったのです。
アメリカも伝えた二人目のミカド
実を言うと、この輪王寺宮が「天皇」とされていた可能性が指摘されています。
1868年10月18日のニューヨークタイムズの記事にも「今、日本には2人のミカドがいる」と書かれていましたし、日本のアメリカ公使も本国に対して同様の内容を伝えています。同時に「北方政権が優勢」とも伝えていました。
その後はご存知の通り新政府が勝利し、東北朝廷の存在は幻に終わっています。
東北朝廷に関しては構想にとどまった説が残ってはいるものの実在した説も現在まで残っており、全くの荒唐無稽の話でもなかったようです。
平安末期の二人の天皇
時代は違いますが平安時代末期、悲劇の天皇として知られる安徳天皇もまた二人天皇時代の張本人です。
時の権力者・平清盛に半ば強引に即位されますが、本来なら皇位継承に大きな影響力を持つはずの父方の祖父・後白河法皇が清盛との政争中に幽閉されている最中の出来事でした。
後に平家が反旗をひるがえされ、後白河法皇が幽閉の身を解かれたうえに清盛が亡くなると後白河法皇が主導権を握ります。
平家は安徳天皇と三種の神器とともに都落ちすると、後白河法皇は三種の神器なしに後鳥羽天皇を即位させ、天皇が2人存在する時代となったのです。
武家政権が始まって国の政治の中心が朝廷から離れても動乱期に天皇やミカドが2人並立するような事態を見る限り、やはり大きな影響力を保ち続けていた存在だったのが分かる気がします。