関東地震から98年、寺田寅彦の「震災日記より」を読む
大正デモクラシーを終焉させた大正関東地震
今、多くの人たちが、東京スカイツリーから送られてくるアスリートの映像に日々感動しています。実は、東京スカイツリーの場所は98年前の今日、地震による大火に覆いつくされました。また、競技場の多くは戦後に作られた埋立地に建っており、その周辺の湾岸低地では、地震の強い揺れと大火によって多くの人が犠牲になりました。平和の祭典の裏にある過去の歴史も学んでおきたいと思います。
日清戦争(1894年)と日露戦争(1904年)に勝利し、列強の一角を占めるようになった日本は、大正デモクラシーの時代を迎え、第1次世界大戦による大戦景気に沸いていました。そんな中、1917年9月に東京湾台風による高潮災害が起き、18年から20年にかけてはスペイン風邪が流行し、国内で40万人もの方が犠牲になりました。そして、1923年9月1日に大正関東地震(災害名は関東大震災)が発生しました。
この震災は、10万余の命を奪い、国家予算の3倍を超す経済被害を出しました。人口が集中する東京市と横浜市を中心に甚大な被害となり、日本は窮地に陥っていきました。震源からやや離れた位置にあった東京では、隅田川以東の軟弱地盤が強く揺れ、多くの家屋が倒壊しました。昼時の地震だったため、倒壊家屋などから出火した火災が、強風に煽られて密集した家屋を延焼させ、大火になりました。この結果、東京市下で7万人もの犠牲者を出しました。
自然への畏れを軽んじた街づくりが災害を激甚化し国難へ導く
大正関東地震よりも大規模だった元禄関東地震(1703年)での江戸府内の死者は約300人、これに比べ、東京市内の犠牲者が200倍にもなった原因には、東京の土地利用と家屋密集があったと考えられます。大正関東地震の後、日本の各地で地震が頻発し、室戸台風や阪神大水害などの風水害、函館や静岡などの大火が続き、国際情勢が悪化する中、日本は軍国主義化して戦争への道を突き進みました。そして、太平洋戦争では310万人もの日本人が命を落としました。
自然への畏れを軽んじた街づくりが、災害を激甚化し、日本を国家存亡の危機へと誘ったことを忘れてはなりません。稀代の物理学者であり随筆家でもあった寺田寅彦は、1934年11月発行の「経済往来」に「天災と国防」を記し、
などの言葉を残しています。
寺田寅彦は、地震が起きたとき、東京上野の喫茶店に居て、その時の様子を「震災日記より」に書き残しています。
「震災日記より」にみる関東地震の直前
震災の8日前、8月24日に加藤友三郎首相が薨去しました。ですから、震災当日は首相不在でした。8月26日には、西から天頂にかけて電光が見えたと記しています。ある種の前兆現象のようにも感じます。
地震当日の朝の天候は、「しけ模様で時々暴雨が襲って来た」と記されており、日本海側を移動していた台風の影響が感じられます。寺田寅彦は、朝に雑誌『文化生活』の原稿「石油ランプ」を書き上げて、上野二科会展の見物に行きました。
この「石油ランプ」には、田舎にある隠れ家で使う石油ランプを探していた寅彦が、石油ランプを販売する店を見つけられなくて困っていた様子が記されています。
ライフラインの脆弱さに気づかずに、安穏と過ごしている東京の危うさを見事に指摘しています。まさにその数時間後に、それが現実のものになりました。
関東地震のときの上野の揺れの様子
寅彦は、上野で遭遇した地震の揺れの様子を、次のように記しています。
最初に短周期の初期微動の揺れがあり、その後、強烈な揺れが2度襲い、さらに、周期4~5秒の長周期の揺れが長く続いたことを見事に表現しています。ただし、地盤が固い上野の揺れは建物を壊すものではなかったとも言っています。そして長く続く長周期の揺れが、寅彦の母が安政南海地震の時に経験した揺れと共通すると語り、巨大地震特有の揺れを解説しています。
地震後の被害の様子
喫茶店を出た寅彦は、上野周辺の被害の様子を下記のように記しています。
東照宮の石燈籠の転倒、鳥居の横げたの被害、不忍池の弁天社務所の傾斜など、実際に観察した被害に加え、カビの臭いと土埃から下谷の被害の酷さや火災発生の危険について予感しています。
そして、寅彦は曙町(現在の本駒込)にある自宅に歩いて帰ります。当初は、谷筋の根津を抜けようとしましたが、被害が大きいのを見て、尾根筋の谷中三崎町、団子坂、千駄木を通って帰ります。自宅も含め、これらの場所の被害は軽微だったことが記されています。
その後、勤務していた東京帝国大学の火災被害の報告が記され、寅彦自身が夜に出かけて見た大学の様子も記されている。その中に下記のような記述がある。
積乱雲のような雲の下では火災旋風が猛威を振るい、多くの人たちが焼死していました。
翌日以降の様子
寅彦は、翌日以降、周辺の被害を調べ始めます。
このように、下町に加え、駿河台、神保町周辺まで延焼した様子が分かります。さらに、被災者の避難やデマの流布の様子も描かれています。
食料品が欠乏し始める中、寅彦の家に避難してきた親戚の人の分も含め、食料の確保の準備を始めます。
このように、当時は、東京市内外の親戚との助け合いができており、疎開先のある人は郊外に避難したことが分かります。
寅彦は、震災後、「震災日記より」以外にも、前述の「天災と国防」を始め、「災難雑考」「地震雑感」「静岡地震被害見聞記」「流言飛語」「神話と地球物理学」「津浪と人間」など、地震に関わる随筆を残しています。今も色あせない寅彦の地震防災感に触れてみてはどうでしょう。青空文庫で簡単に読むことができます。
さて、あと2年で、関東地震から100年を迎えます。この地震を受けて制定された防災の日に、関東地震などの過去の災禍を学び、わが事と思って災害のことを考えてみませんか。過度な東京一極集中、災害危険度の高い場所に広がるまち、高層化・密集化した建物、遠距離通勤・ライフラインに過度に頼る高効率社会など、現代社会の危うさを感じます。感染症が蔓延し、医療体制の維持すら難しくなっている現状を直視し、防災減災の意識のスイッチを入れてみましょう。