170年前に起きた伊賀上野地震から災禍が続き一気に幕末へ
安政の南海トラフ地震の半年前に起きたM7クラスの伊賀上野地震
今から170年前、江戸末期の1854年7月9日に、三重県北西部で伊賀上野地震が発生しました。三重県と滋賀県の県境にある木津川断層が活動したようです。被害は三重県、奈良県、滋賀県、京都府に広がり、約1,800人が亡くなったと言われています。中でも三重県では、上野城の石垣が壊れるなど伊賀地方の被害が顕著で、桑名、四日市、亀山、津などでも多くの被害が出ました。また、この地震のとき、大阪では多くの人々が川船へ避難を行い、余震などから身を守ったといいます。この成功体験が5か月後に起きる安政南海地震で川船へ避難を行った人々が津波によって溺死することに繋がってしまいました。
災難の歴史
物理学者・寺田寅彦は、1935年に災難雑考の中で「理屈はぬきにして古今東西を通ずる歴史という歴史はほとんどあらゆる災難の歴史である」と述べています。伊賀上野地震の時期にも災禍が続発し、その後、江戸時代の終焉に繋がりました。この地震の1年前の1853年3月11日には嘉永小田原地震が発生し、7月8日には、黒船に乗ったペリーが浦賀沖に現れました。翌年、伊賀上野地震の3か月前の3月31日に日米和親条約が締結され、長らく鎖国していた日本は開国しました。さらに、5月2日には京都の内裏を焼く大火もあり、江戸幕府は内憂外患の状況になりました。さらにその後も災禍が続きます。
東海地震と南海地震で安政に改元
伊賀上野地震の5か月後に南海トラフ地震が発生しました。12月23日に南海トラフ地震の震源域の東側で安政東海地震が、約30時間後の12月24日に震源域の西側で安政南海地震が続発しました。
安政東海地震では、紀伊半島以東から伊豆半島にかけて大きな被害となりました。地震が起きたとき、伊豆下田ではロシアのプチャーチン提督と日露和親条約の締結交渉が行われていました。港を襲った津波によって戦艦ディアナ号が損壊し、修理のため曳航中に沈没しました。その後、伊豆半島の戸田村で戸田号を造船し、ロシア戦艦の乗員は帰国しました。戸田号の造船を通して、日本は西洋の造船技術を学ぶことができたと言います。
安政南海地震では紀伊半島以西から四国にかけて大きな被害を受けました。先に述べたように大阪も津波に襲われました。和歌山の広村では浜口梧陵が村民を津波から救った逸話があり、後年、これを題材に「稲むらの火」と呼ぶ物語が作られ、尋常小学校の国語の教科書に掲載されました。南海地震の翌々日の12月26日には豊予海峡地震も起きています。
このように1854年には多くの災禍が続いたため、元号が嘉永から安政に災異改元されました。このため、東海地震と南海地震には、安政という元号が頭に付けられています。
南海トラフ地震に続いて起きた余震や誘発地震
1855年になってもM7クラスの南海トラフ地震の余震が頻発しました。これに加え、3月18日に飛騨、9月13日に陸前、そして、11月11日に江戸直下で地震が発生しました。とくに、安政江戸地震では、江戸府内を中心に1万人もの死者を出し、日比谷入江を埋め立てた大名小路の被害が甚大でした。水戸藩江戸屋敷では尊王攘夷派の藤田東湖と戸田蓬軒が圧死しました。
大地震に加え、台風、感染症も発生
1856年にも、8月23日に八戸沖地震が起き、9月23日には大型台風が江戸を直撃して、暴風と高潮により甚大な被害を出しました。さらに、1858年4月9日には飛越地震も発生します。この地震では立山連峰の大鳶山・小鳶山が崩壊し、大量の土砂が流出しました。このため、地震以降、立山カルデラを源流とする常願寺川は暴れ川となり、日本の砂防の発祥の地となりました。この年には安政狐狼狸(ころり)と呼ばれるコレラの大流行が起き、江戸だけでも3万人の死者が発生したようです。
こういった混乱の中、井伊直弼が大老に就任し、日米修好通商条約の締結や安政の大獄などを行いました。その後、直弼は1860年桜田門外の変で暗殺され、1862年の麻疹やコレラの流行、1863年薩英戦争と続き、1867年に大政奉還され、明治へと時代が移りました。学校で学ぶことがない災害の歴史ですが、寺田寅彦の言葉のように、災禍が重なって時代が移っていったように感じられます。