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緊急事態宣言がむしろ社会の崩壊を招く。宣言発動をしてはいけない5つの理由、新型コロナ特措法の光と影。

山田健太専修大学ジャーナリズム学科教授
東京都の1日感染者数が100人に近づき、医師会がいう緊急事態宣言ラインに近づいた(写真:つのだよしお/アフロ)

 新型コロナ特措法に基づく「緊急事態宣言」が、近日中にも発動(発令)される状況だ。すでに、法律上の手続きはすべて完了し、発令の条件も満たしたとの認識を政府が示しているからだ。テレビやネット上の声も、いち早い発令を期待するものが圧倒的に多い。日本医師会も発令を促し、東京都知事も一歩踏み込んだ発言を続けている。3月28日の3回目の首相会見でも、「最悪の事態を想定」という言い方で、緊急事態宣言発令を前提とした経済対策を今後とっていくことを明言した。

 しかし、同宣言をいま発令することには、極めて大きな問題がある。感染を封じ込めるために有効に見えるものの、実はより深刻な事態をもたらす可能性が高いからだ。その理由を5つにまとめた。

●エビデンス

 第1に、エビデンスが決定的に不足している。新型コロナ特措法(改正新型インフルエンザ等対策特別措置法)が定めるとおり、宣言を出すことができる条件は、

(1)国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれがある

(2)全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼし、又はそのおそれがある

――の2つの条件が満たされた場合だ(法32条1項)。

 1つ目の健康への重大被害については、国内外の論文等から科学的知見が十分得られており、疑う余地がないといえる。したがって、ポイントになるのは2つ目の「蔓(まん)延」と「影響」だ。影響については、蔓延した場合の医療現場への甚大な影響など、これもまた海外事例から一定程度合理的な予測が可能である。すでに現段階においても大きな経済損失があることに鑑みれば、経済への影響も合理的な推測が十二分に可能である。

 では、すべての前提となる蔓延はどうか。この点につき、厚労大臣は専門家会議の報告を受け3月26日、「蔓延の恐れが高いと認められる」と首相に報告している。確かに、東京オリンピックの延期が決まったタイミングから、東京都の感染者数は急増しているものの、その絶対数だけから「蔓延」という状況ではないことは明らかだ。

 これは、通常のインフルエンザの蔓延認定の際の感染者数と比較すれば一目瞭然だ。専門家会議の知見でも、母数が極めて限定されている現在の「行政検査」の範囲から、全体像を推測して蔓延状況(あるいはその危険性)を導いているにすぎない。

 東京都の例をみても、3月26日現在の累計検査実施人数は2269人だ。日別でみると、実施開始から100件を超えたのはわずかに3日、23日の週に入って多少増えてはいるものの、全体でみれば1日50件以下が半数である。しかも保険適用で行った検査(医療検査)は統計に含まれずで、東京都の発表数字には入らない。

 要するに、相変わらず全体像はつかめないということに他ならない。その中で、全体像を推測して蔓延しているというには無理があるのではないか、ということだ。もちろん、十分にすでに蔓延している可能性も、近い将来蔓延する危険性もあると思うが、そうであるならば、保険適用の「医療検査」を積極的に進めるなり、簡易的にでもサンプル調査を実施して、現況をきちんと提示することが必要だ。

  言い分としては、PCR検査を実施すると医療崩壊を招くというものがあるが、今の状況はむしろ、実態から目をそらして感染者数の過小評価を続けているということにほかならない。さらにいえば、感染爆発のリスク要因になるとして、リンクの見えない感染者数の増加を危惧すると言いつつも、感染場所や接触可能性などについては、相変わらず積極的な公開はないままだ。同じことは、若年層の感染実態についてもいえる。

 こうした状況下で緊急事態宣言をするということは、情報の統制が強まる中で、さらに実態は藪の中に押し込まれ、生活の我慢だけが強いられるということを意味する。検査をするかしないかという、他国には見られない〈神学論争〉をしているうちに、結果として検査もせず、実態もわからないまま、政治判断で市民の権利を制限するということが当たり前のように行われてしまっていいのかということだ。

 そしてまた、こうした時に必ず出てくるキーワードが「国難」だ。国の存亡がかかっているときに、手続きの不備とか、個々人の権利侵害を言っているのはお門違いであるという意見である。状況の悪化をギリギリまで放置しておいて、最後に切り礼の国難理由を使うのは、政治の無責任さの典型である。こうした政治手法は、いかなる場合でも許されない。

 むしろ、政治家が率先してこうしたワードを使用するときは、危険な兆候だとして社会的なアラームを鳴らす必要があるが、そのカナリヤ役のメディア(テレビや新聞に登場する専門家やコメンテーター)が、率先して国難アピールをしているのが現状であるところが、社会的な脆弱さをあらわしている。このメディアの問題は改めて後述する。

●基準

 第2が、判断基準の曖昧さだ。そもそも、この法律とりわけ緊急事態宣言の発動(発令)の特徴は、「曖昧で強力」なことだ。すなわち、極めて曖昧な基準で発令可能にもかかわらず、非常に強い私権制限が予定されている。逆に言えば、私権の制限という自由や権利の市民的自由の制約が予定されているにもかかわらず、恣意的な判断の余地がある条件で発令が可能ということになる。

 だからこそ、政府対策本部長である首相は、予め可能な限り、どういう場合が緊急事態にあたるのかを、国民に対し分かりやすく説明し、そのような事態にならないよう早め早めに対処をして、社会全体を危機から回避させる責任がある。にもかかわらず、穿った見方をすれば、あえて判断基準を不明確(曖昧なまま)にすることで、国民を惑わす状況が続いている。

 結果として、危機感の共有が遅れ、感染者の爆発を誘引しかねない状況にあるといえる。しかもそうした状況になったいまでさえ、いまだに基準は示されないままで、冒頭に紹介した28日の首相会見でも、基準を求める記者の質問に対しては答えずじまいだった。その理由は、本当に基準を持っていないか、判断のフリーハンドを確保するためにあえて隠しているかである。

 これは、いずれにしても社会にとっては大変不幸である。どちらの場合も、発令段階の「政治判断」は「示威的なもの」にならざるを得ないからである。そして、残念ながら確たる根拠は何らないが、首相はこの2つの可能性のどちらにも当てはまるのではないかと思われる。前者については、学校一斉休校や入国制限について、専門家の知見に頼らず政治判断したことをリーダーシップと勘違いしている節がある。いわば、ないことを誇っているということだ。

 そして後者についても、きちんと意思決定過程を残さないという悪弊が、今回の場合もそこここに見え隠れする。例えば、3月27日の参院予算委員会において、関係閣僚らによる「連絡会議」が実質的な意思決定に関与している実態があることから、議事録を作成することを要求されたことに対し、議事録・議事要旨の作成には言及しないままだった。

 「関係省庁からの報告内容等がわかる毎回の記録を作成していく」が、「まだ作成されていない」という回答もあった。さらに、連絡会議の位置づけについて、議事内容の記録作成を義務付けた「政策の決定・了解を行う会議ではないので、作成義務はない」との見解を示した。そのため、議事内容の文書化は行われておらず、活動の期間や場所、進捗状況を示した「活動の記録」にとどまっているということだ。

 これは、さらに前の3月10日の閣議了解である「行政文書の管理における『歴史的緊急事態』について」と通底する問題だ。内閣は、今回の一連の感染症の事態が、行政文書の管理に関するガイドラインに規定する「歴史的緊急事態」に該当するので、きちんと文書の記録をとることを約束したと解されている。

 しかしここにはトリックがあって、そもそも緊急事態がどうかに関わらず公文書を残す(記録をとる)ことは行政の義務であって、緊急事態だから、ではない。しかも、ここにいう「記録」とは議事録・議事要旨のことをさすものとされているにもかかわらず、様々な理由付けをすることで、結果としては議事の記録(すなわち議事録)を残さないという選択肢をとっているということになる。

 このように、ことごとく意思決定過程を残さない選択をしてきた現政権の姿勢は、すでにこの間の公文書の改竄・破棄・隠蔽を進めてきた状況から十分に推測できるものではある。そしてこうした姿勢の延長線上にあるのが、基準を示さず、判断はフリーハンドでという考え方ではないかということだ。しかも、その意思決定の過程や基準は霧の中で、後世の検証を決定的に阻んでいる。

●強制力

 第3は、強制力はないというイメージ操作だ。緊急事態宣言下の休校要請が出された中で、講義を実施する大学は私学を含めて皆無だろう。もし、要請を無視したら、あとで文科省にいじめられることは目に見えているからだ。ことほど左様に、多くの企業・組織において、行政の要請、しかも法の根拠がある要請、さらには指示を断る勇気はないはずだ。

 この点については、すでに指定公共機関にNHKが法指定されており、その他の緊急事態法制(災害対策基本法や武力攻撃事態対処法など)では、民放や新聞社が指定されている報道機関を例にとって、より詳しく考えてみたい。要請等の主体である都道府県対策本部から指定公共機関へできることは、「労務、施設、設備又は物資の確保についての応援要請」(法27条)とされている(さらに行政機関は「正当な理由がない限り、応援を拒んではならない」(同条後段)とされている)。

 同時に、他の条文では「総合調整を行うこと」(法24条1項)、「職員の派遣要請」(法24条3項)、「情報の提供要請」(法24条5項)、「状況報告・資料提出の要請」(法24条6項)、「必要な協力の要請」(法24条9項)などが定められている。NHKが官邸に、職員を派遣し、報道用に収集した情報や資料を提供することが、どういう意味をもたらすかは説明する必要がないだろう。もちろん、義務ではなく努力義務ではあるが、拒否することはあり得まい。

 こうした危険性に鑑み、参議院の審議においては附帯決議において、「報道・論評の自立を保障し、言論その他表現の自由が確保されるよう特段の配慮を行うこと」という条項が加わったわけであるが、この一文が効果を発揮することはないだろう。そもそも、いわずもがなの「表現の自由に対する配慮」をあえて明示しなければならないということに、この特措法の問題があるということだ。

●情報統制

 第4は、提供情報の決定的な不足がある中での宣言発令は、さらなる情報統制を呼ぶことになる、という点だ。そして本来であれば、こうした政府広報の問題を指摘し、場合によっては不足する情報の穴を埋める働きをすべきマスメディアの弱体化が指摘されて久しい。ジャーナリズムに権力監視機能を求めること自体が時代遅れともいわれているが、それでもこうした「国難」を政府がいうときに、竿をさすのではなく、流れに抗う存在が必要だ。たとえ少数派になっても、憲法上の大原則に則って、きちんとモノが言えるかが社会の成熟度であろう。

 そしてこれは第5の、指導者の信頼性が欠如しているということとも関係する。安倍首相の国会の言動をみるにつけ、悪夢の民主党といったことはないといい、夫人の花見写真には逆ギレし、財務省職員の自殺遺書には知らんぷりを決め込んでいる。これほど、政治家としての信頼性に欠ける言動を一度に発揮することは珍しいほどであるが、こうした指摘に対しても全く悪びれた風はない。

 ということは、同じようなことは緊急事態宣言下においても起きるということだ。しかもその時には、現時点でさえチェック機能を果たしえていない国会という歯止めも存在しない。その気になれば、官邸の意思がそのまま反映される閣議決定で決めることができる政令で、法律同様のことが可能となりうる規定もあるからだ。

 そうした状況の中で、立法時に決まった国会事前「報告」にどのような意味があるのかまったく想像がつかないが、それでも緊急事態宣言条件に該当する事態の発生の確認と事項の確認(法32条1項)に、少しでも立法府としての良心を示すことにわずかな期待をするしかない。

 繰り返しになるが、条件とは

・国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれがある

・全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼし、又はそのおそれがある

事項とは

・新型インフルエンザ等緊急事態措置を実施すべき期間

・新型インフルエンザ等緊急事態措置を実施すべき区域

・新型インフルエンザ等緊急事態の概要

――の、全部で5つの事項である。

 法の建付け上、事前報告段階での国会に拒否権はないが、それでも事実上のストップをかけることや、見直しをさせる歯止めになる可能性は残されている。同じことはジャーナリズムに対してもだ。首相会見で、読者・視聴者からのさらなる存在感と信頼感を失った個々の記者の奮起なしに、これからの「言論報道機関」はありえない。

 いま、総体として私たちの民主主義の力が試されている。

(追記)4月1日に変換ミスを修正した。

専修大学ジャーナリズム学科教授

専修大学ジャーナリズム学科教授、専門は言論法、ジャーナリズム研究。日本ペンクラブ副会長のほか、放送批評懇談会、自由人権協会、情報公開クリアリングハウスの各理事、世田谷区情報公開・個人情報保護審議会会長などを務める。新刊に『「くうき」が僕らを呑みこむ前に』のほか、『法とジャーナリズム 第4版』『ジャーナリズムの倫理』『愚かな風~忖度時代の政権とメディア』『沖縄報道』『放送法と権力』『見張塔からずっと~政権とメディアの8年』『言論の自由~拡大するメディアと縮むジャーナリズム』『ジャーナリズムの行方』『3・11とメディア』『現代ジャーナリズム事典』(監修)など。東京新聞、琉球新報にコラムを連載中。

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