10年前、金正恩氏は父の死に衝撃受け、「本当に、空が崩れ落ちたような心情」と吐露
北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)総書記が最高指導者になって間もなく10年になる。公式メディアは「革命領導の10年」などの用語で金総書記の業績を振り返るとともに、忠誠心を鼓舞する報道を連日のように続けている。金総書記のその「革命領導」はいつから始まったとみるべきなのか。
◇三つの節目
10年前を振り返ってみる。
金総書記の父、金正日(キム・ジョンイル)氏が2011年12月17日、69歳で亡くなった。19日には朝鮮中央テレビが「特別放送」を予告したうえ「17日午前8時30分、現地指導の途で急病により逝去したことを、最も悲痛な心境で知らせる」と伝えた。告別式は28日に営まれ、その2日後に開かれた朝鮮労働党政治局会議で、金正恩氏は朝鮮人民軍最高司令官に任命された。まだ27歳だった。
年が明けた2012年4月11日の党代表者会で、新たに設置された「党第1書記」に、同13日に開かれた最高人民会議第12期第5回会議で、同じく新設の国防委員会第1委員長に、それぞれ推戴された。この時点で、金正恩氏は軍、党、国家の三つの最高指導者ポストに就いたということになる。
北朝鮮では3代にわたって権力が世襲されてきた。この観点でみれば、金正日氏というリーダーが失われた時点で、金正恩氏はその地位を引き継いだことになる。一方、北朝鮮の権力の源泉が軍部にあるという観点に立てば、軍最高司令官に任命された時が起点ともいえる。さらに、北朝鮮における「すべての活動」は朝鮮労働党の指導の下にあるという点から考えれば、党代表者会で党の最高位に就いた時に権力を掌握したともいえる。
ちなみに、金正恩氏の祖父・金日成(キム・イルソン)氏から金正日氏が後継体制を引き継いだ際、党中心ではなく独断専行の形で国家運営を進めた。北朝鮮からみれば、当時は冷戦崩壊に伴う「危機管理体制」にあり、軍優先の「先軍政治」という異例の形態をとっていたのだ。
一方、金正恩体制への移行には十分な時間はなく、金正恩氏が若かったこともあって、金正日氏が生前、党中心の国家運営のシステムを組み立て、金正恩氏を補佐する後見人として、義弟の張成沢(チャン・ソンテク)氏=2013年12月に処刑=や、軍総参謀長などを務めた李英鎬(リ・ヨンホ)氏=のちに粛清=ら実力者をあててきた経緯がある。
◇金正日氏死去を伝える日付を金正恩氏が指示
筆者が入手した金正恩氏の発言録によると、金正恩氏は父親が亡くなった当日、党指導部のメンバーを集めて、金正日氏の健康状態について振り返りつつ、葬儀の段取りなどについて指示していた。
2011年12月に入って医師団が金正日氏に「健康には特に注意しなければなりません」と伝えていたが、金正日氏はそれを振り切って現地指導に赴いたと記されている。金正日氏の訃報に触れ、金正恩氏は「あまりに突然逝去されたので、本当に、空が崩れ落ちたような心情です」「到底信じられません」と吐露している。
翌年2月16日に金正日氏が70歳を迎える予定だったため、金正恩氏は「最も有意義に記念する」ことを考えていたという。しかし、それがかなわず、「七旬(70歳)も迎えていただくことができずに旅立たせてしまったことに、さらに心が痛みます」と吐露している。
金正日氏が亡くなったその日から、金正恩氏はさまざまな指示を出している。金日成氏の遺体が安置されている錦繍山(クムスサン)記念宮殿(現・錦繍山太陽宮殿)に金正日氏の遺体も永久保存すること▽金正日氏の訃報に関する報道を「12月19日に出す」ようにする▽その際、「逝去に関する訃報」としてではなく「すべての党員と人民軍将兵と人民に告げる」とする▽国家葬儀委員会の構成と哀悼期間、弔意訪問期間を知らせよ――などと党指導部に伝えている。
こうした点を考慮すれば、金正恩氏は、金正日氏が亡くなったその日から最高指導者としての役割を果たしていたとみるのが妥当のようだ。