【大河ドラマ鎌倉殿の13人】和田義盛挙兵!その時、北条泰時は!?
建暦3年(1213)5月2日、鎌倉の和田義盛の屋敷に軍勢が馳せ集まってきました。義盛は、相模国三浦郡和田を本拠とする豪族であり、源頼朝の挙兵(1180年)に際しては、頼朝に加勢し、武功を立てていきました。
そして、義盛が当初、希望したように、侍所(御家人の統轄を担当する機関)別当(長官)に任命されるのです。権勢を増していく義盛。しかし、それは北条氏にとっては、目障りでした。
同年2月、信濃国の御家人・泉親衡が源頼家(鎌倉幕府2代将軍)の子・千寿を擁して叛逆しようとしたことが発覚。泉の同志が多く捕縛されますが、その中には、和田義盛の一族も含まれていたのです。
義盛はその赦免を請いますが、和田胤長(義盛の甥)は縛り上げられて、陸奥国に流罪になってしまいました。胤長の屋敷は一旦、義盛に与えられますが、それがなぜか、北条義時方が手中にすることになるのです。これは、北条氏が、義盛を挑発・激怒させ、挙兵に追い込んだと言われています。
三代将軍・源実朝は、穏便に物事が収まるように尽力(義盛に使者を派遣)しますが、残念ながら、目的を達成することはできませんでした。
冒頭に記した義盛挙兵の時、北条義時は囲碁をしていたとされます(『吾妻鏡』)。義盛の不穏な動きを聞いても、義時は驚くことなく、落ち着いて着替えを済まし、幕府へ出仕したといいます。義時にとっては、義盛挙兵は、想定内だったのかもしれません。
義時の子・北条泰時のもとにも「義盛挙兵」の報せが入りますが、その時、泰時は二日酔いの状態でした。5月1日の夜に飲み会があったのです。気分が悪いなか、甲冑を着し、馬に乗る泰時。泰時の運命や如何に!