プーチンのロシアはかつてNATO加盟を目指していた
フーテン老人世直し録(706)
文月某日
リトアニアで開かれたNATO(北大西洋条約機構)首脳会議は、スウェーデンの加盟を正式に承認する一方、ウクライナについては「加盟国が同意し、条件が整った時に承認する」と時期や条件を曖昧にしたまま先送りにした。
ウクライナのゼレンスキー大統領は首脳会議前に「ウクライナの加盟の時期が示されないのは前代未聞でバカげている」と強い調子で批判したが、彼はロシア軍が侵攻した直後の昨年3月に米国ABCテレビのインタビューで、「NATO加盟が簡単でないことは分かっていた」と述べている。つまり分かったうえでNATOを批判したのである。
ウクライナをNATOに加盟させれば、米国を中心とするNATOとロシアが直接戦火を交えることになり、核戦争の危機を招く第三次世界大戦が現実になる。バイデンの米国にその気はまるでなく、戦争はウクライナにやらせ、それを支援することでプーチンのロシアを弱体化させるところにバイデンの目的はある。
一方、もし来年の大統領選挙で共和党への政権交代が起これば、ウクライナ支援そのものが見直され、停戦に向けた動きが出てくる。そのためゼレンスキーはそれまでにすべての領土を奪還できないと政治生命を失う。
ウクライナ国内にロシア軍が駐留する状態で、ウクライナがNATOに加盟することはあり得ない。バイデン政権が続く場合でも全領土奪還がNATO加盟の最低条件になる。ところがゼレンスキーからすれば、NATOの軍事支援はウクライナの要求通りではない。反転攻勢に時間がかかるのもそのためだ。そうしたことが強い不満となって現れたのだと思う。
しかし首脳会議では、①NATO加盟国はウクライナに対する軍事支援を今後も複数年継続する。②NATOとウクライナが対等の立場で話し合う「NATOウクライナ理事会」を立ち上げる。③加盟手続きを簡素化するの3条件を示されると、ゼレンスキーは「会議は成功だった」と態度を一転させた。
領土奪還の見通しが立ったということなのか。それにしては米国が「禁じ手」とも言うべきクラスター爆弾供与を打ち出している。そうしないと弾薬不足から反転攻勢がうまくいかないと考えているからだ。そして非人道的なクラスター爆弾の使用にはNATO加盟国からも異論が出ている。
またもしウクライナが米国製クラスター爆弾を使えば、ロシアも対抗上クラスター爆弾を使うと主張しており、ウクライナ領土にはクラスター爆弾の不発弾があふれ、ウクライナの戦後復興にとって障害となる。
そこでゼレンスキーとしては、NATOとウクライナが対等の立場で話し合う「NATOウクライナ理事会」が立ち上がったことで、ウクライナはNATOの準加盟国扱いされることになり、加盟の道筋が見えないのなら、加盟の一歩手前の準加盟を会議の成果とすることにしたのかもしれない。
しかしNATOの準加盟国と言えば、かつてのロシアもそうだった。2000年に権力の座に就いたプーチン大統領は、2001年の9・11同時多発テロでブッシュ(子)大統領が宣言した「テロとの戦い」に協力し、米国のアフガン戦争を支援するため、保守派の反対を押し切り、旧ソ連の構成国であった中央アジア諸国に米軍の駐留を認めた。
さらにプーチンは、欧州と融和するためNATOとの接近を図り、2002年5月にローマで開かれたNATO首脳会議で「NATOロシア理事会」の設立にこぎつけたのである。つまりロシアはNATO加盟国と対等の準加盟国になった。プーチンはその先に正式加盟を考えていたはずだ。
そもそもNATOは冷戦時代に旧ソ連を敵とすることで出来た軍事同盟である。しかし旧ソ連が崩壊した後は敵がいなくなった。プーチンはロシアがNATOのメンバーとなることでNATOの軍事同盟的色彩を薄め、その性格を変えさせようと考えていた。
これには軍部や保守派の政治家から反対の声が上がった。NATOの東方拡大は反ソ思考の延長上にあるというのが彼らの見方である。そして実際にプーチンは欧米から裏切られ、NATO加盟は思惑通りにならなかった。
米国は1999年にNATOに加盟したポーランドとチェコ、2002年に加盟したルーマニアとブルガリアに米軍基地を作り、米国のミサイル防衛システムを配備した。米国はイランと北朝鮮の脅威に対抗するためだと説明したが、プーチンはロシアをターゲットにしていると考え反発する。
07年にミュンヘンで開かれた安全保障会議でプーチンは、「すでにソ連もワルシャワ条約機構軍もないのに、NATOの東方拡大は誰に対抗するためのものなのか」と不満をぶちまけた。
ここでフーテンがワシントンで見てきた「NATOの東方拡大」について説明する。発端は日本の国民皆保険制度を真似しようとしたクリントン政権の失敗から始まる。クリントン政権が誕生した1993年、米国経済は双子の赤字を抱えて最悪の状態だった。クリントン夫妻は成長著しい日本経済の真似をしようと考えた。
中でも国民皆保険制度に目をつけ、ヒラリーが先頭に立って国民皆保険制度の導入に力を入れた。ところが「小さな政府」を好む米国民にはそれが受け入れられなかった。中間選挙でクリントンの民主党は大惨敗、自身の大統領選挙再選も危うくなる。
そのためクリントンは180度の転換を図る。「大きな政府の時代は終わった」と宣言して新自由主義を取り入れ、外交面ではカーター政権で安全保障担当大統領補佐官を務めたズビグニュー・ブレジンスキーの進言を受け入れ、それまで米国政治ではタブーとされた「NATOの東方拡大」に舵を切った。
冷戦時代の米国は「ソ連封じ込め戦略」を採用し、ソ連との直接衝突を避けるのが外交の基本だった。その戦略を作ったジョージ・ケナンは「NATOの東方拡大」に強く反対していた。しかし1996年の大統領選挙に勝つため、クリントンは2千万と言われるポーランド移民票を取り込もうとしてそのタブーを破った。
この記事は有料です。
「田中良紹のフーテン老人世直し録」のバックナンバーをお申し込みください。
「田中良紹のフーテン老人世直し録」のバックナンバー 2023年7月
税込550円(記事5本)
2023年7月号の有料記事一覧
※すでに購入済みの方はログインしてください。