【近代史】タイムカードなし解雇なし定年なし!武士の心で石油商売をつらぬいた「出光佐三」の生き様とは?
“石油”といえば、今や世界中の国々が文明を維持するための生命線であり、ときに戦争さえ引き起こすほどの超重要物質です。
しかし明治時代のはじめ頃、エネルギーを生み出す物質の主流は石炭であり、石油は今ほど重要とは考えない人々が大半でした。固形物の石炭に比べて液体の石油は、当時からすれば運ぶのが困難ですし、ガソリン自動車も発明されたばかりで、あまり普及はしていません。
日本でもその用途と言えば、ランプの明かりをともす燃料というのが主流でしたが、その頃から先見の明をもって「石油は必ず、世界を動かす物質になる」と見抜いている人がいました。
その人物こそ若かりし頃の出光佐三(いでみつ・さぞう)。今にも続く出光興産の創業者ですが、その生涯はけた違いの闘いと波乱の連続でした。
タイムカードなし解雇なし定年なし
彼は若かりし頃に、信念のある先生や師との出会いをはじめ、人間関係に恵まれました。まず事業とは自分の金もうけではなく、人々のために行うものという精神を叩き込まれます。
しかし明治44年、出光佐三は石油配給の会社を創業したくても、資金がありませんでした。そのとき「君に賭けよう」と、お金を出してくれる恩人が現われたのです。
その人物は自分の別荘を売り払い、6千円(今でいう1億円レベル)という大金を提供して言いました。「いいかい。このお金は貸すのではなくて、やるんだ。したがって利子も無ければ、営業の報告もいらない。その代わりみんなで家族のように仲良くして、信念を貫きなさい」。
出光佐三は涙を流して感謝し、一生を通じて経営に“大家族主義”と“人間尊重”の精神を貫きました。新入社員に母親がついてきて「この子をお願いします」と言われたときには、自分の子どもが生まれた気持ちになり「このお母さんに代わって、この子を育てよう」と決心したといいます。そして回顧録の言葉には、このようなものがあります。
「“出光”に定年はない。人が50歳になれば役に立たないなど(昔は現在よりも定年が早かった)人間をバカにしている。どこで身を引くかは年齢に関係なく、本人の判断によって決まることだ」。
「“出光”にタイムカードはない。これは人間を信頼していれば当然のことで、自尊心のある人ならば“出勤簿がなければサボるなどと、侮辱するな”と抗議ぐらい申し込むのが、本当である」。
家族だからこそ、「何才になれば縁を切る」ということもなければ、最初から信頼を前提に接しました。しかし優しく扱うだけでなく、成長のためであれば厳しく教えることも厭いませんでした。
また、それだけの覚悟で接するからには「容易に入社はさせない」と、人はかなり選んでいましたが、反対に一生の面倒みる心持ちで「こちらから解雇はしない」という方針をつらぬいたのです。
THE・明治の男
出光佐三の故郷は、世界文化遺産にも登録された宗像(むなかた)大社で有名な、今の福岡県・宗像市です。そうしたバックボーンもあり、生涯を通じて地元の神々を信仰していました。
宗像では、アマテラスとスサノオが生み出したと言われる三女神が祀られています。それは、ひいては皇室の起源にも繋がるため、出光佐三は天皇陛下を敬愛するとともに、ひいては日本国のために身を捧げる決意をしていました。
また武士の心をもって商売に臨むとする“士魂商才(しこんしょうさい )”を座右の銘として、徹底したフェアプレーに拘ります。まさに古き良き“日本男児”そのもので、曲がったことは許せない性格でした。
たとえ会社に有利となることであっても、袖の下や天下りは拒否。また「組合を作って、私たちで業界をコントロールしましょう」といった動きにも断固として反対しました。
そのため、それらを進めたい人には厄介者とみなされ、妨害や締め出しも喰らってしまいます。一時は廃業を決意するほど追い込まれますが、当時の満州や東南アジアなど海外に活路を見出し、血のにじむような努力の末に“出光”は大会社へと成長しました。
ここまででも「山あり谷ありの人生でした」と言うには十分ですが、むしろ本当の試練はここから始まったのでした。
第二次世界大戦の勃発
やがて日本は太平洋戦争に突入し、“出光”の社員でも働き盛りの若者が大勢、徴兵されてしまいます。しかし出光佐三は「社員は家族と同じである」という信念のもと、徴兵されている間も、社員に給料を払い続けました。
しかし戦況が次第に悪化して困窮すると、軍部から「タンカーを提供して欲しい」という依頼が届きます。これは“出光”が将来への夢を託し、巨額を注ぎ込んで建造したものでしたが「お国のためになるなら」と応じます。しかし徴用されたのち、アメリカ軍に沈められてしまいました。しかも、どこでどのように沈んだかも知らされないという有り様です。
ここまで積み上げてきた何もかもが、崩されていく感覚であったことは想像に難くありません。さらに日本の敗戦が決まると、主軸にしていた海外の資産は戦勝国に没収され、ばく大な借金だけが残されてしまいました。
何をしてでも生きのびる覚悟
終戦後、東京の本社ビルは運よく残っていましたが、他は焼け野原といった惨状になっていました。また日本は石油が枯渇して敗北したくらいなので、それを扱う商売など出来るはずもありません。
誰もが絶望と不安に苛まれるなか、出光佐三は社員への訓示で言いました。「海外から戻ってくる社員も含めて“出光”は、ひとりも解雇をしない。日本はきっと立ち直ることができる。だから愚痴をいわず、今から再建に取りかかろうではないか」。
この訓示は敗戦の数日後であり、ばく大な借金のうえ仕事もない中、ひとりもクビにしないという決断は、並みの精神力ではありません。しかし、何かしらの勝算があったわけではありませんでした。
「生きのびるために何でもする」という精神で、社員みんなで仕事を見つけてきては、農業や漁業、ラジオの修理屋まで、何でもやって食いつなぎました。
ちなみにこのとき、日本国としては石油がなければ復興もままならず、政府はGHQに「我々に石油を回して貰えませんか」と訴えていました。しかし・・これは直前まで敵だった日本への、イヤがらせとも考えられますが、返事はこのようなものでした。「石油であれば、まだタンクの底に残っているのでは。それを使ってはいかがでしょう?」
このとき日本が保有していた石油タンクには、くみ上げたあと底に残っている石油が、確かに存在していました。しかし、それをくみ出すポンプは破損や動力不足で使えず、人力で行うしか手段がありませんでした。
国中で使う量を、バケツなどを使ってくみ出そうという話です。それだけでも気が遠くなりそうな作業ですが、加えてタンクの内部は人体に有害な環境です。どの組織や会社も首を横に振り、この話はたらい回しにされていましたが、出光佐三だけは「私たちがやりましょう」と言って、引き受けたのでした。
条件はひどくても、石油を扱う仕事に違いはありません。また、これは「そこまで言うならやってやる、見ていろ」という意地でもありました。“出光”の社員はタンクの入り口からロープを垂らし、鼻をつく悪臭のなか交代で入っていきました。一定間隔ごとに上から「おーい、大丈夫か」と声をかけ、返事がなければ緊急事態で、すぐに引き上げるといった手法です。
全員が油まみれの真っ黒になりながら、しかし“出光”の理念が浸透していたこともあってか、挫折することなくこの作業は続けられました。さすがのGHQも「ここまでやるか」と驚いたのか、次第に日本へ石油を回してくれるようになりました。
そうはいっても効率として当然ながら“タンクの底さらい事業”は赤字となり、“出光”の財政はさらに追い込まれました。しかし、こうした姿は多くの人の心に響いており、その中には銀行の重役をしている人物もいました。のちに“出光”が困窮した際、通常では考えられない融資を承諾し、救われることになります。
このようにして会社は少しずつ立て直されていきますが、しかし運命は“出光”にさらなる試練を与えます。海外で世界中の石油を支配していた、通称“七人の魔女”が立ちはだかり、それは日本の1企業がまともに張り合える相手ではありませんでした。
※この記事の一部は『出光佐三の日本人にかえれ』『マルクスが日本に生まれていたら』『海賊とよばれた男 上・下巻 』などの書籍を参考に、執筆させて頂いています。