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「不思議の国ニッポン!」アメリカに江戸文化のタイムカプセルを展示した“モース博士”は日本で何を見た?

原田ゆきひろ歴史・文化ライター

ときは1877年、明治維新の直後で日本は江戸時代の名残りが、どこも色濃く残っていました。そうしたなか、横浜の港に到着した一隻の船。そこには、やけにご機嫌な1人のアメリカ人が乗っていました。

お雇い外国人として、明治政府に呼ばれたエドワード・モース博士。彼は好奇心の塊のような人物で、独特の文化にあふれる日本行きを、心待ちにしていたのでした。

その期待通り、はじめて見る日本の町は何もかもがアメリカと違っていました。そこらじゅうでカラコロと鳴り響く、下駄の音。ビン詰めの砂糖菓子を売り歩く行商人。おたふく顔の形をした商店の看板。街角で披露されているカラクリ人形の興行。

「なんだ、この不思議な国は」

彼は学者らしく、いちど興味をもつと極限まで追究しつくす性格だったと言われます。その対象が、一気に日本へ注がれることになりました。そしてモース博士は暇さえあれば、あらゆる場所を歩いて回るようになりました。

日本はモース博士の理想郷?

記録によるとモース博士は、両手で別々の絵を描くことができるなど、特殊な才能をもっていたと言います。
しかし幼少期、彼は故郷の学校生活に馴染めませんでした。授業を勝手に抜け出すなど、教師に反抗する問題児とみなされ、生き方に悩んだ時期がありました。

静かにしていることが少なく、同僚から「生きた発電機」というあだ名で呼ばれるなど、常人とは少し違う、天才気質な性格も伺えるエピソードです。

さて、彼は好奇心をバクハツさせながら、さまざまな光景を目の当たりにしました。町の大きな広場に行くと、赤、青、みどり、ムラサキなど色とりどりの和傘が並んでいます。

和傘は竹の枠組みに和紙を貼り合わせて作られますが、職人がその過程で乾かすために、並べていたものでした。また別の広場には、桜の花や金魚など様々な絵が描かれた、提灯が並べられていました。

「なんだ、このうつくしい光景は。何だか不思議な夢のようだ」

すっかり日本文化の虜になったモース博士ですが、滞在を重ねるほど、これら江戸から受け継がれた文化は、やがて時代とともに消え行くことも悟りました。

モース博士は決心しました。「この文化は世界は宝だ。時間の許す限り、私はこの記録を残すぞ」。

それから彼は日本について、あらゆる事を調べてまわりました。人々はどんな家に住み、どんな道具を使い、何を食べ、何を大切にしているのか。

やがて「日本その日その日」という本を完成させます。これは日本語でも翻訳され、現在でも読むことができます。

日本人の知らない日本


モース博士の記録には同じ国でありながら、今の日本人が忘れ去った光景の数々が記されていました。

「下町の商店は、どこも店先から奥の居間まで、開け放しになっている。家族が寝ていたり、食事をしている姿が外から見える」

アメリカはもちろん、現代ともプライバシーの感覚が、まるで違っていたことが伺えます。

「今日はお祭り。子ども達がお神輿へアリのように群れている。世界中でこれほど、子供が親切に扱われている国はないだろう。子供達は朝から晩まで、ニコニコして楽しそうにしている。日本は子どもの天国だ」

誰々の子どもという明確な線引きはせず、大人たちが親切に面倒を見ている光景。こうした記述にも、古き良き時代の精神的な豊かさが感じられます。

またモース博士は外から眺めるだけでなく、自ら飛びこむ体験も重ねました。茶道や謡曲を習って会得。お正月に門松やしめ縄が飾られていれば、写真を取って由来を聞き、家々にはためく鯉のぼりを見れば、その光景をスケッチしました。

なかでも特筆すべきは生活に関わる、あらゆる実物を集め回ったことです。和服、火鉢、ネズミのオモチャ、お店の看板、見せ物小屋の人形、お地蔵様。

そのなかにはジョウロや下駄箱など、当時の日本人が『わざわざ、そんな物を欲しがるなんて、もの好きだねえ』と言われるようなものも、ありました。しかしモース博士にとっては、そのすべてが宝物だったのです。

海を渡ったタイムカプセル

以降、モース博士は生涯に何度も来日し、記録やコレクションを充実させて行きました。

すべてを合わせると3万~5万点にも上ると言われますが、これらはアメリカに持ち帰り、やがて自身が館長となったミュージアムに展示しました。

マサチューセッツ州の“ピーボディー・エセックス博物館”。令和の今なお現役のミュージアムで、実際に訪れる事も可能です。そこには忘れ去られてしまった、日本の生活や風習、センスや工夫など、様々な記憶がタイムカプセルのように保存され続けています。

これは、たいへん貴重な記録ですが、一般的にはあまりメジャーではありません。しかしモース博士の名前は、日本史のとある項目で、教科書に載るほど有名になりました。

それは彼が初来日したときのことでした。汽車の窓からあるモノを、ぐうぜん発見します。

「あれは、なんだ!あそこに、なにか遺跡のようなものがあるぞ」

あとでその場所を訪れて調査をしてみると、当時は知られていなかった古代日本人の、生活の痕が残されていたのです。

「これは土器の欠片だな。どれも縄で押したような、模様がついている」。当時は未知の古代でしたが、のちに日本の学会はモース博士の言葉から、この時代を“縄文”と呼ぶことにしました。

これもモース博士が細やかに、すべての景色に興味を持っていたからこそ、繋がった発見かも知れません。

モース博士が残したもの

文化や伝統がどうこうと言うと、ややもするとかた苦しいイメージも付きまといます。

しかしモース博士の足跡は“お勉強”のような畏まったものでなく、興味や冒険心にあふれています。

そこには今の私たちにとっても大切な精神的な豊かさや、人生を味わい深くするためのヒントが、秘められているような気がしてなりません。


歴史・文化ライター

■東京都在住■文化・歴史ライター/取材記者■社会福祉士■古今東西のあらゆる人・モノ・コトを読み解き、分かりやすい表現で書き綴る。趣味は環境音や、世界中の音楽データを集めて聴くこと。■著書『アマゾン川が教えてくれた人生を面白く過ごすための10の人生観』■鬼滅の刃・ドラゴンボールZのファン

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