【戦国時代】この世を去るとき敗軍の将は何を思った?3つの“辞世の句”から垣間みえる大名の生き様
ときは戦国時代。勝者の裏には必ず敗者の存在がありましたが、その中には目覚ましい躍進を見せたものの、一転して滅亡に追いやられた大名も少なくありません。
そのような武将は最期のとき、いったいどのような想いを抱いたのでしょうか?この記事ではその生き様について、"辞世の句”を通して迫って行きたいと思います。
【武田勝頼】天目山の戦いに敗れ自刃
おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ はれてゆくえの 西の山の端
(おぼろげに霞んでいた月も、周りの雲が晴れて行く。私も晴れて西方の、極楽浄土へ行くことができるのか)
この句の最後“西の山の端”は仏教で言うところの浄土を指しています。ブッダは今から約2500年前のインド地方で悟りを開き、仏教はそこから誕生したので、日本から見れば西にあたります。
父の武田信玄は仏教を篤く信仰していましたが、子の勝頼も最後のメッセージには、仏教の世界観を色濃く感じます。また“はれてゆくえの”は、「雲が晴れて行く」と「晴れて行くことができる」の、2つの意味を掛けていると言われます。
勝頼は武田家の当主になった直後から、戦いの連続と言える人生でした。北に上杉家、東に北条家、西には織田や徳川と、戦国時代でも最強レベルの大名に囲まれていました。その時点から、もはや戦いの人生は宿命づけられていたかのようです。
最後は身内も含めた味方が次々と寝返り、まさに最悪の状況で敗北に追い込まれますが、辞世の句を見ると直前まで、修羅場に身を置いていた気配がありません。
むしろ心は澄み切り、悟りの境地にでも達したかのようです。「晴れて極楽浄土へ行くことができる」。この言葉からはもしかすると、本当は戦いの人生よりも、穏やかに生きたかったのかも知れないと、そのような想像も浮かんできます。
【北条氏政】豊臣秀吉の小田原征伐に敗北
我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば
(今から、我が身がこの世から消え去る事実を、どのように思うべきなのだろうか。私はただ天から生を授かり、また空へと帰るだけなのだ)
400年以上も前の人物ながら、現代人がそのまま読んでも、意味が明確に分かりそうな句です。それもとくべつな作為や技巧などは施さず、何ともストレートな表現が特徴です。
“空へと帰る”という表現は切なさとともに、前述の勝頼と同じく、自らの運命を受け入れている心境を感じさせられます。
ちなみに北条氏政は一般的な評価としては、低く見られることの多い大名です。しかし足跡をたどれば、かの武田信玄と戦場で対峙して、渡り合った経歴もある武将なのです。そして終盤には歴代当主の中でも、最大版図を築きあげました。
その大きさは240万石にも達すると言われ、天下人には及ばないものの、十分に“大大名”と言えるレベルでしょう。当時の日本を見渡せば、頂点に準じる勢力を誇る関東の覇者です。その栄華から、わずか数年後には豊臣秀吉に敗れ、切腹を命じられる1罪人の立場になってしまいました。
大成功から転落までを一気に味わったからこそ、どこか「人間の生は儚い」「命運に身を委ねよう」といった心境が、辞世の句に反映されているのかも知れません。
【柴田勝家&お市の方】賤ヶ岳の戦いで敗北し居城で自刃
【お市の方】さらぬだに うちぬるほども 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな
(寝ている間もないほど、夏の夜はただでさえ短いと言いますのに、ホトトギスが別れを急かしていますよ)
【柴田勝家】夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす
(まるで夏の夜に見る夢のように、私の人生もはかないものだった。山のほととぎすよ、そのような私の名ではあるが、せめて後世に伝えておくれ )
上記の2つは辞世の句としては珍しく、お市の方の句に柴田勝家が返し、夫婦として2人の句が、かけ合わされていると言われています。そのため両方を1つとして取り上げさせて頂きました。
なお双方の句に登場する“ホトトギス”ですが、当時は“冥土から死者を迎えに来る鳥”という考えがありました。
お市の方の“さらぬだに”は「そうでなくても」といった意味合いがあり、もはや最後の拠点も敵に囲まれ「そう急かさなくても、ほどなく私たちは滅ぼされるというのに」といった意味が、含まれていると思われます。
柴田勝家の“雲居”は空のように“遠く離れた場所”を意味しており、「広く私のことを伝えておくれ」といった内容に解釈することができます。この部分に関してはどこか「敗れはしたが、“もののふ”としては戦い抜いた」といった自負も伺える所があります。
それも織田軍の主力として、数知れない合戦を戦い抜いた経歴を見れば「その感情も当然だな」と感じさせられそうです。
また、お市の方も兄である信長が討たれた本能寺の変は、まさかの急転でした。しかし柴田勝家とお市の方の自刃は、そのわずか翌年であり、まさに“急かされている”かのような運命です。
本当の所までは分かりませんが、最期をともにした辞世の句からは、仲睦まじさも伺える夫婦でした。それだけに歴史の流れとは言え、乱世の非情さも感じられる辞世の句です。
最後のメッセージから見える生き様
以上、この記事では最終的には敗れた武将の、辞世の句をご紹介しました。どの武将にも共通して感じるのが、あまり主張をあれこれとしたり、ジタバタするような態度を見せず、去り際の潔さが伺える点です。
もちろん本心では後悔や怒りなど、さまざまな感情を抱いていた可能性もあります。しかし、とくに後世に残すメッセージとしては、負の側面をあまり前面に出さず、ある種の美学すら感じさせられるものがあります。
あるいは乱世の中にあって、いつでも滅亡する可能性はあるのだと、一定の覚悟を常に決めていたのかもしれません。
このように歴史とは“何が起こった”という記録でありながら、一方で人気のコンテンツが大河“ドラマ”であるように、人の物語に思いを馳せるとき、よりいっそう共感を抱けるように思えます。