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【戦国時代】現代人でも思わずハッとする?言葉だけでなく有言実行して語られている武将の名言・3選

原田ゆきひろ歴史・文化ライター

合戦、他勢力との駆け引き、家臣や領民の統率。戦国時代のリーダーたちは過酷な乱世を生きており、下手をすれば家臣ともども、命を失ってしまうこともありました。

そのような武将たちは、ときに独自の方針や哲学を持ちあわせ、それは時代を超え、現代人にも通じるヒントを与えてくれることがあります。

この記事では今の世にも伝わる戦国武将の名言、その中でも机上ではなく本人が、実際の生き様で示していると思われる3つをピックアップして、ご紹介したいと思います。

はたしてどのような言葉なのか、ぜひ興味を抱きつつ、ご覧頂けましたら幸いです。

①細川忠興(ただおき)「家臣の者どもはみな、将棋の駒だと思うべし」

これを言葉そのままに受け取ると「大名にとって、家臣の存在はコマに過ぎないと?ひどい」と思われるかも知れません。しかし、この名言にはそうではない真意が含まれており、その内容は後述いたします。

ちなみに細川忠興という武将は、知名度としてはメジャーというよりは、そこそこ知られているレベルの人物です。しかし彼の妻は明智光秀の娘であり、クリスチャンとして“細川ガラシャ”の名で呼ばれていることや、彼女が石田三成の人質となる道を拒否し、壮絶な最期をむかえた話は有名です。

細川忠興は当初、足利将軍に仕える家臣の1人でした。しかし後に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、一国一城の主として江戸時代まで生き延びました。そして彼の息子が治めた熊本藩は、幕末に至るまで続くことになりました。

さまざまな勢力が台頭しては滅亡する乱世にあって、誰につき従うかを適切に判断する、たしかな眼力を持った武将と言えるかも知れません。また世渡りの立ち回りのみならず、大名としての資質も評価されることの多い武将です。

さて、冒頭の話は後継ぎとなる息子の忠利(ただとし)に対し、教訓を込めた言葉とされています。将棋の駒は、その種別によって動きがまったく異なります。一般的に最強の駒として、盤面を縦や斜めにつきぬける“飛車(ひしゃ)”や“角(かく)”が挙げられますが、打ち手の戦法次第では1マスずつしか進めない、“歩(ふ)”に仕留められることもありえます。

忠興はこれを人間の才能になぞらえ、主君たるもの人材を活かし切る手腕を持たなければならないと、教えています。一見、周りより劣っているように見えても、場所や方法を変えれば、人は輝くこともあります。

人を見極めるという点では、この才能が乱世を上手く生き延びた、ひとつの理由かも知れません。なお、この言葉は江戸時代に岡谷繁実(おかのや・しげざね)という人物が記した『名将言行録』(めいしょうげんこうろく)という書物に、その記述があります。

②真田幸村「いざとなれば損得を度外視できる性根。それを持つ人間ほど、怖い相手はない

大河ドラマ『真田丸』でも主人公として描かれ、それ以前からも大勢の歴史ファンに大人気の名将です。兵力が自軍の10倍を超える徳川秀忠の軍勢を、父とともに足止めした第二次上田合戦。

また大坂の陣でも徳川勢の圧倒的な戦力を、たびたび苦戦に追い込みました。最終盤では家康に死を覚悟させるほどに斬り込むなど、 実際の戦歴でも日本で指折りの武将と言う事ができます。

さて、真田幸村は大阪の陣が開戦すると、家康から「我らに寝返れば、信濃10万石を与えよう」という誘いを受けますが、これを即座に拒否。かつて豊臣秀吉から受けた恩を重んじ、“義”を貫き通しました。まさに自身の実績を伴っており、上記の言葉にも大きな説得力があります。

ちなみに戦国時代の全体を見渡すと、有利・不利を勘定せずに、信仰の力で立ち向かってくる一向一揆には、かの信長さえ大いに手を焼きました。

また関ケ原の戦いでは、勝敗が決していたにも関わらず、生死を顧みない島津兵が徳川軍の本陣を襲撃。家康の息子や主力武将の1人が手傷を負うほどのダメージを与えられ、率いていた島津義弘も討ち取れませんでした。(通称:島津の退き口)

このように真田家以外にも、損得を超えた人間の脅威には多くの実例もあり、なおさら重みのある言葉となっています。

③黒田官兵衛「神の罰より、主君の罰おそるべし。主君の罰より、臣下・万民の罰おそるべし」

前述の真田幸村と同じく、2014年の大河ドラマでは『軍師官兵衛』 で主人公となった武将です。敵将の想像を上回る調略や奇策で、豊臣秀吉が天下人へと至る道を、大きく後押ししました。

また関ケ原の戦いが始まると、九州で西軍に味方した大名を次々と撃破。仮に石田三成がもっと持ちこたえ長期戦となっていたら、その間に九州を平定していたという見方も、少なくありません。

このように戦いにおいて無双とも言える強さを誇りましたが、政治家としては家臣や領民を労り、治めていたと伝わります。その官兵衛が晩年、子孫に残した訓戒が冒頭の言葉といわれ、おおよそ以下の様な意味となります。

「神の罰であれば、必死に祈りを捧げれば怒りを免れる。自らの主君から下される罰は、真心を込めて謝罪すれば、状況によっては許されることもあるだろう。しかし、家臣たちや民衆の怒りがひとたび燃え上がったならば、もはや祈っても謝っても許されない。そして大名は、その領国を失うことになるのだ。家臣や民衆からの罰こそ、もっとも恐ろしいものだ」

この言葉通り、戦国時代は一流の武将であっても、反乱や一揆に苦しんだ大名が数多く存在しました。“家臣の罰”として最たるものとしては(理由は諸説ありますが)明智光秀が反逆した本能寺の変が挙げられるでしょう。

これに対し黒田官兵衛は、家臣や民衆から離反されたことのない武将と言われ、まさに有言実行で示した上での教訓と言えるかも知れません。

ハッとさせられる武将の名言

ここまで、今の世にも伝わる武将の名言をお伝えしてきましたが、これらは現代にも通じるものが少なくありません。

細川忠興の適材適所は会社経営やチーム作りにも通じますし、お金や権力で物事を解決してきた人にとって、それがまったく効かない真田幸村のような人物は、脅威に感じるかも知れません。

また著名人が世間の批判やSNSの炎上により(良くも悪くも)失脚に追い込まれるニュースを見ると、黒田官兵衛の言葉は身につまされる思いになります。

戦国時代と現代では多くの状況が異なりますが、一方で人間の営みとしては変わらない真理もあり、そこには沢山の学びがあるような気がしてなりません。



歴史・文化ライター

■東京都在住■文化・歴史ライター/取材記者■社会福祉士■古今東西のあらゆる人・モノ・コトを読み解き、分かりやすい表現で書き綴る。趣味は環境音や、世界中の音楽データを集めて聴くこと。

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