【戦後史】日本の石油を“7人の魔女”から守れ!世界中を出し抜きイランを親日に傾けた世紀の大博打とは?
※この記事は、想像を絶する逆境にも信念をつらぬき、ついには日本の将来をも左右した出光佐三(いでみつ・さぞう)の歩みを、ご紹介しています。こちらは後編にあたり、前編をお読みになっていない方は、ぜひ以下を先にご覧ください。
明治の初期には、主にランプの燃料として使われていた石油ですが、若かりし頃の出光佐三の予見通り、やがて世界をも動かす超重要な物質となりました。先進国を中心に自動車が普及し、船も飛行機も石油で動くようになり、日本が太平洋戦争に突入したのも、最終的に敗れたのも、石油がかぎを握っていたことは間違いありません。
そして戦後、世界では欧米の大手石油会社が巨万の富を得て、強大な力を振るうようになりました。とくに支配的な力をもったアメリカ・イギリス・オランダ資本の代表的な7社は、のちに“七人の魔女(通称:セブン・シスターズ)”と呼ばれるようになります。
さて、戦後にGHQが日本に石油を回すようになり、取引も解禁されるようになると、“出光”をはじめ国内の他の石油会社も、本業を再開して行けるようになりました。しかし、敗戦国で立場の弱い日本の石油会社は、独力ではあらゆる面で融通が利きません。
そこへ、海外の大手石油会社が「われわれと業務提携しませんか?」と歩み寄り、渡りに船とばかりに、多くの会社が応じました。しかし、その条件として自社株の売り渡しであったり、経営陣に指定された人物を迎えるなど、要するに運営の決定権を握らせる代償もあったのです。
しかし出光佐三は日本の未来のため、生命線たる石油を海外勢に握られる事態を憂いました。また創業からの理念もあり、そうした誘いを断固として拒否します。しかし、それは同時に“魔女”を敵に回す行為でもあり、再建を目指す“出光”に強力な締めつけの圧力が、かかることになりました。
包囲網を突破するには?
“出光”への攻撃は、たとえば有力者に働きかけて“出光”にだけ不利なルールの制定や、マスコミに働きかけたネガティブキャンペーンなど、あらゆる方面から行われました。
国内で包囲され苦しくなった“出光”は、海外に活路を見出します。アメリカに渡り“七人の魔女”の影響が及んでいない地域に、石油を買いつけに行きました。そうして輸入した石油は驚くほど品質が良く、裏を返せば今まで日本に回されていたものは、だいぶ質の悪いものだったという事も判明します。
これを適正価格で販売したため、“出光”の提供する石油は多くの人々に喜ばれました。しかし、しばらくすると仕入れ先から“なぜか”「取引はできない」と、急な通達が入ります。それならばとアメリカの別地域や中米など、別を当たろうとしますが、やはり“なぜか”締め出されてしまいます。
“魔女”から、さまざまな手が伸びているのは明らかで、滅亡へのカウントダウンが刻まれていきました。しかし、ここで出光佐三は本当の意味で“七人の魔女”の手が及ばない、イランの石油に活路を見出します。しかし、そこへ至る道は貿易というよりは、戦場へ向かうようなものでした。
待ち受けるはイギリス軍
イランはもともと世界有数の産油国ですが、そこへ最初に目をつけたのはイギリスでした。日本でいうところの明治時代、当時のイラン自体も石油の重要度をそこまで認知しておらず、地元の権力者にも上手く話を通し、石油施設の設営から生産までイギリスの会社が独占しました。
イランとしては、やがて石油が重要だと分かっても、あとの祭りです。自国の資源にも関わらず、ほとんどの利益をイギリスに持っていかれ続けます。そして現地のイラン人は安い給料で働かされたうえ、困窮するという構図で不満がたまっていました。
また当時のイランはイギリスやロシア帝国に分割された、半植民地のような状態でした。とても状況をくつがえすことは、ままなりません。しかし戦後にイランが独立を果たすと「この石油は我々のものである」と主張し、国内の石油施設を接収したのです。
しかしイギリスからすれば、それらの施設や技術は「われわれが築いたものだぞ」という立場で、イランが不当に強奪したと激怒します。経済制裁を加えたうえで、周辺の海域にイギリス海軍を派遣。「イランの石油を買いに来た船は、安全を保証しない」と宣言しました。
それでもイランの石油は魅力的であり、取引を試みた国もありましたが、タンカーが拿捕されたうえ、積んでいた石油も没収されてしまいました。いよいよイランは追いつめられ、あわや戦争かという雰囲気まで漂い始めます(アーバーダーン危機)。
この状況では、通常の石油会社はおろか“七人の魔女”でさえ手が出せません。イラン国内は重苦しいあきらめムードも漂い、“出光”の社員が交渉に行っても「どうせ、本当には買いに来れないでしょう?」という目で見られてしまいました。
しかし“出光”の社員は「見くびらないでいただきたい。われわれは誓って、約束を違えたりしません」と宣言。少しでも情報が漏れれば、たちまちイギリスに先回りされてしまうため、すべてを極秘裏に計画を進めました。
“出光”は「日章丸(にっしょうまる)」という、巨額を注ぎ込んで建造したタンカーを保持していました。船内には出光佐三のアイデンティティーでもある、宗像大社の分社も祀られ、まさにすべての未来をかけた切り札を、出航させたのです。
もし、これが撃沈の憂き目や没収などを受けてしまえば、財政的にも“出光”の命運は尽きます。まさに一世一代の大博打であり、まず表向きは「サウジアラビアに行きます」と言い、途中でとつぜん進路を変更しました。
これが、イギリス側の目をかいくぐることに成功。イランの港へ、日の丸のはためくタンカーが入港すると、この衝撃のニュースにイラン中が歓喜しました。
「まさか、本当に来たぞ」「日本、やってくれたな」。船員たちはイランから国をあげての大歓迎を受け、喜びのあまり歌ったり踊ったりする人も、大勢いたと言います。
そして石油の取引はもちろん、のちに「日本にだけは半年間、半額で販売しましょう」といった宣言もなされました。イランにとって、これがいかに特別で喜びが大きかったか、伺えるエピソードです。
現在ではイランといえば、日本人にはなじみのないケースも多く、むしろ同盟国のアメリカと敵対関係であるなど、良くないイメージを抱く人も少なくありません。
しかしイラン側からは歴史的に、日露戦争でのロシア帝国に対する勝利、そして日章丸のエピソードという背景も相まって、日本に対して好意を抱く国民が多いと言われます。
石油を日本に持ち帰れ
この一連の出来事は通称「日章丸事件」と呼ばれ、世界中の度肝を抜きました。ときは1953年、敗戦国の日本がようやく国際社会に復帰したタイミングであり、その1企業が戦勝国のイギリスに“喧嘩を売った”と、驚かれました。
しかし当然イギリス側が黙っているはずもなく、日章丸の苦難はむしろ帰りの航路でした。これだけニュースになっては砲撃など、直接的な攻撃はハードルが高くなりますが、位置を捕捉すればいくらでも手段がありました。
たとえば当時は、海域によっては戦時中に設置された機雷が、残っていました。飛行機で日章丸の航行先に機雷を投下、爆発して石油ごと撃沈しても、“ぐうぜんの不幸な事故”との判別は困難です。
あるいは小さな船でもぶつけ、船員が海に投げ出されでもすれば、海上の決まりとして救助の義務が発生します。それをイギリスの影響力を行使できるエリアで行えば、日章丸が港に立ち寄ったところを、拘束することもできます。
日章丸はとにかく現在地が知られないよう、遠回りを含めた意外な航路を選ぶなど、相手の裏をかきました。そして、ついに日本への帰国を果たし、世紀の貿易を達成したのでした。
ただ日本に着いてからも、イギリス側は諦めません。「その石油は違法である」と主張し、差し押さえの裁判を起こしますが、出光佐三は法廷で言いました。
「わたしは天地の神に誓って、少しも恥じることはしておりません」。 すべての行動は敗戦の傷が癒えない日本国民や、困窮するイラン国民を助ける行為であり、取引も正当なものだと訴えました。
世論の多くは、この心意気を支持。ちなみに超大国のアメリカや“七人の魔女”であれば、何らかの手を回せた可能性もありますが、今回ばかりは彼らもイギリスのイラン石油独占を、あまり快く思っていませんでした。
結果として“出光”は裁判に勝利。そこから再建を果たしたばかりか、むしろ大きく発展していきます。そして今にも続く、日本でも有数の大企業へと成長していきました。
出光佐三が残したもの
そして時は過ぎ、日本自体も経済大国へと成長した1981年、出光佐三は95歳の生涯を閉じました。その際に昭和天皇は、このような和歌を詠まれました。
「国のため ひとよつらぬき 尽くしたる きみまた去りぬ さびしと思ふ」。
一経営者としてだけでなく、その存在や功績が日本全体にとっても、いかに大きかったかが伺い知れます。
ちなみに現代の社会では終身雇用が当たり前といった価値観は崩れ、 能力主義こそ至高とされる風潮も高まっています。出光佐三がつらぬいた「社員は家族」という考え方は、ともすれば“昭和的”と、古い価値観の意味合いで言われることも多くなっています。
もちろん様々な思想があって当然ですが、しかし出光佐三の理念は、本当に過去の遺物に過ぎないのでしょうか。本当に良い会社とは、幸せな働き方とは?すべてを“古い”と切って捨てるのではなく、むしろその中には人間社会にとって大切なヒントが、たくさん秘められているような気がしてなりません。
※この記事の一部は『出光佐三の日本人にかえれ』『マルクスが日本に生まれていたら』『海賊とよばれた男 上・下巻 』などの書籍を参考に、執筆させて頂いています。