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不可抗力の音にまで不寛容な日本社会 赤ちゃんの泣き声だけの話ではありません

橋本典久騒音問題総合研究所代表、八戸工業大学名誉教授
(写真:イメージマート)

ある日、機内にて

 もう随分昔になるが、飛行機内で目の当たりにした出来事がある。

 「うるさいな!」、いきなり、イラついた怒鳴り声が機内に響き渡った。筆者の少し前の斜め向かいに座る会社員風の若い男が、振り向きざまに叩きつけるように叫んだ。後ろの席では、まだ乳飲み子の赤ん坊を抱えた若いお母さんが、消え入りそうに下を向いて震えていた。

 飛行機が降下状態に入ってから赤ん坊はぐずぐずと泣き続けていた。母親は、いかにも回りに申し訳なさそうに、なんとか泣きやまそうと必死になっていた。飛行機の中ということでなければ、少し離れた場所に移動し、落ち着いて赤ん坊をあやすこともできたであろうが、着陸まじかでシートベルト着用のサインが出ていては、身動きもできない。キャビン・アテンダントも機長の指示ということで、遥か先の一番前でシートに着席していた。

 機体が着陸し、軽い案内音とともにシートベルト着用サインが消えると、乗客は一斉に立ち上がったが、母親はまだ下を向いたままであった。それまでの様子を気にしていたのか、年配の婦人が優しそうに母親に声をかけたが、それと同時に、母親は堰を切ったように声をあげて泣き始めた。それまでの恐怖や緊張もあったのであろう、大勢の前でさらし者にされたような悔しさもあったのであろう、嗚咽をあげて泣く母親を後ろにして、男はそれでも腹立たしげな様子で通路の列に並んでいた。

 赤ん坊が泣くという、当たり前でどうしようもないことにも納得できず、それを迷惑行為と感じ、怒りをあらわにする者がいる。特に、その男が最後までどこか得意げな様子を崩さなかったことが気になった。不可抗力の音に対する過敏な反応、過剰な防衛、そして相手への過激な攻撃、日本人のメンタリティにすでに後戻りできない大きな地殻変動が生じてしまっている、そう感じさせる出来事だった。

女性から届いた寄稿文

 視覚障害者と音の関係については、以前の記事「〝命の音が聞こえない!〟とは。騒音苦情への対応姿勢を考える」でも問題点を述べたが、その他の障害者に関して、騒音トラブルの範疇を超えた壮絶な状況が存在することをある女性からの投稿によって知った。騒音の研究者を自称し、騒音トラブルや近隣トラブルを熟知しているつもりでいたが、大事な情報がすっかり抜け落ちてしまっていたことを自省する機会ともなった。そこには、例え不可抗力的な状況であっても、音の発生者は決して許容しないという不寛容な社会環境の中で、もがき続けてきた女性の体験が記されていた。タイトルは、「近隣トラブル解決センターの設立を目指して」と題されており、厳しい経験をもとに、筆者が常々提唱している近隣トラブル解決センターの必要性に賛同するという内容であった。その全文を紹介する。

『息子は住宅確保要配慮者である。一般的に障害者は言って聞かせれば理解して改めるということが難しく騒音加害者になりやすい。どの家庭も最低限の節度は保ち暮らしてはいるが、何らかの騒音加害者として近隣トラブルを抱えている。多くの方は私たちの騒音問題に寛容で理解を示してくれるが、一方でスケープゴートの対象として格好の餌食にもなりやすい。この問題はマイノリティー側に配慮された住環境や文化の差を埋める生活支援が少ないことにも課題がある。確かに福祉や療育や医療も重要だ。しかし、先ずは安全で住み心地の良い住まいのあり方を早急に見直す必要性がある。

我が家の場合、近隣トラブルにより何度も転居するという受難を受けている。嫌がらせ行為者(以下、行為者)は、危険や苦渋を母親に訴えられないなどの弱点を利用して、些細な嫌がらせを長期にわたり息子にのみ行っていた。行為者の教唆的な指示(以下、トリガー)で人間騒音発生器となった息子は、パブロフの犬のようにパニックを頻繁させて、マンション中に騒音を響き渡らせることになる。我が家には度重なる騒音苦情が殺到し、私は管理会社や苦情先に謝罪するのが常となっていた。そこで多くの支援を学び、国から最大量の福祉サービスの支給を受け、精神科医が処方した安定剤や入眠剤を投薬させ、環境調整を尽くしたが、一向に事態は改善せず最後には家庭内暴力にまで発展した。全身痣ができて何度も肋骨を骨折し、ガラスや石膏ボードの壁が何枚も蹴破られた。荒れ狂うだけでなく被虐待児のようになったため、一時的に父親とも別居した。

ところがその別居半年後、どんなに暴れても何年も静観していた行為者が突如大々的に嫌がらせを開始した。その行為は単なるクレームの域を超えておりとても不快に感じたが、その不可解な行動が長期間の息子への嫌がらせの内容を仄めかしていると気づいた時には、その常軌を逸した行動に驚愕した。その日から息子は騒音加害者から虐待被害者と一変し、私の心は行為者への怒りと敵意でいっぱいとなった。虐待行為を立証しようと証拠を集め、近隣トラブル解決の4点セット(管理会社、警察、役所、弁護士)へ相談を重ね、様々な手を尽くしたが立件は困難であったため、最終的には家族の心理的安全を重視し転居を決意した。

この近隣トラブルは、民生委員も警察も児童相談所も仲裁はできず、弁護士も警察が介入するまで動けず、基本的な解決策は転居一択しかない。転居により心理的虐待は回避できるが、息子はトラウマを抱え、親も強い恨みを抱えて長く苦しむことになる。クライシスな経験には心理的浄化のメンタルケアが必要であることも知らず、重いトラウマを放置したためか、同じタイプの人間と遭遇し、同じトラブルを引き起こし何度も転居することとなる。心理的安全を求めて転居したマンション1階でも、セーフティ住宅でも、地方の庭付き戸建でも、障害への理解ある地域で防音工事と防音室を設えた戸建でも、人間の悪意ある行為から簡単には逃れられず、どこでもトラブルは多発した。これは『どこにどう住む』という住居の問題ではなく、『誰がそばにいるか』という人間関係の問題に他ならない。

そこで、私は我が家の救済を求める時に必ず『行為者の救済』も願い出た。自分たちは社会の中で漫然とした不安と不満の中にいるのに、障害者は無駄な税金を使い込み、一方的に社会に迷惑をかけているのだから、稚拙な正義感を振り翳しても構わないという心理が差別やハラスメントの正体ならば、私たちの安全は相手の幸せが成り立たなければ成立しないからだ。近隣トラブルは正に感情公害である。防音技術だけでは決して解決しない。

これはマンガ呪術廻戦の【呪い】と【呪術】の関係と近しい。近隣トラブルという【呪い】は、【呪術】という近隣トラブル解決センターの調停技術なくしては解消しない。それは加害者、被害者のどちらの立場でも必要だ。近隣トラブルで辛い経験をした私にとって、近隣トラブル解決センターの設立は長年の悲願である。最後に、今年成人となる息子は多くの地域のご支援により社会の一員として立派に働いてる。苛烈な毎日ではあるが、今日まで息子の笑顔を守り抜いている自分も誇らしく思う。憲法第13条の第3章の個人の人権、幸福追求権、公共の福祉の権利に立ち帰り、サザンオールスターズのピースとハイライトの世界観のように互いの良さを見つけ合い、全ての人間に安全な住環境と穏やかで優しいコミュニティをと願うと共に、近隣トラブル解決センターの設立を心より祈念している。』

安全・安心な生活環境の整備

 今年は、内閣府・障害者基本計画(第4次)の最終年度である。現在は、第5次の基本計画の策定に向けて作業が進められている。第4次計画の「Ⅲ 各分野における障害者施策の基本的な方向」の最初の項目は、「1.安全・安心な生活環境の整備」であるが、今回の投稿を読んで、この計画の策定において、今回のような近隣トラブルの状況が十分に認識されているのか疑問に感じた。住宅の確保に関しては、バリアフリー対応やバリアフリー改修を推進することを謳っているが、これらは物理的なバリアーを想定しており、心理的なバリアーに対する状況対応が何処まで想定されているのか、基本計画の文章からは認識できない。しかも現在は、悪意の心理的バリアーといえるものまで出現している状況である。

 現代日本社会の喫緊の課題は少子化対策であるとして、現在、様々な施策が検討されている。しかし、最初に示した飛行機内の出来事を経験した女性は、とても二人目の子どもを育てようという気にはならないであろう。少子化をテーマにした報道番組でも、赤ちゃん連れの女性が、電車やバスでは赤ちゃんが泣きださないかといつもハラハラしていると話していた。赤ん坊の泣き声さえ許さず攻撃的な対応が平然とまかり通る現実、障害者により不可抗力的に発生する騒音にも苦情が止まない現実、そんな安全・安心とはいえない生活環境を整備してゆくためには、多くの当事者から生の状況をつぶさに聴取する必要がある。現代日本は他人の騒音に対して極めて不寛容な社会であり、第5次計画では、それらの情報を元により多面的な環境整備の方策が打ち出されることを期待している。自戒的な意味も含めて、正確な状況を知ることが対策の第一歩だと考えている。

騒音問題総合研究所代表、八戸工業大学名誉教授

福井県生まれ。東京工業大学・建築学科卒業。東京大学より博士(工学)。建設会社技術研究所勤務の後、八戸工業大学大学院教授を経て、八戸工業大学名誉教授。現在は、騒音問題総合研究所代表。1級建築士、環境計量士の資格を有す。元民事調停委員。専門は音環境工学、特に騒音トラブル、建築音響、騒音振動、環境心理。著書に、「2階で子どもを走らせるな!」(光文社新書)、「苦情社会の騒音トラブル学」(新曜社)、「騒音トラブル防止のための近隣騒音訴訟および騒音事件の事例分析」(Amazon)他多数。日本建築学会・学会賞、著作賞、日本音響学会・技術開発賞、等受賞。我が国での近隣トラブル解決センター設立を目指して活動中。

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