〝命の音が聞こえない!〟とは。騒音苦情への対応姿勢を考える
命の音とは、出産の現場の話ではありません
2016年10月、通勤途中だった徳島市の視覚障碍者の男性(当時50歳)が、バックしてきたダンプカーに轢かれて死亡するという事故が発生した。事故にあったのは男性だけでなく、一緒にいた盲導犬も犠牲になった。亡くなった方は、視覚障碍者のための社会改善活動に積極的に取り組んでいた人で、徳島ではテレビなどでも度々取り上げられていた。盲導犬もあと数日で引退を迎える予定であったということで、徳島では大変に大きく報道された。
2018年12月、東京都豊島区の幹線道路で、早朝、通勤のために最寄駅を目指して横断歩道を渡っていた視覚障碍者の男性(当時64歳)が、走ってきたワゴン車にはねられて死亡した。犠牲になった男性は、原子物理学が専門の研究者で、先進的ながん放射線治療の普及に取り組んでおり、視覚障碍者の支援活動にも熱心な人だった。通勤ラッシュを避けて数か月前から1時間以上早く出勤するようになり、この事故に遭遇してしまった。
「命の音が聞こえない!」というタイトルを改めて見て、その内容の想像がつくだろうか。実は、最初のダンプカーの死亡事故では、事故を起こしたトラックはバックの時の警報音を切っていた。運転者は公判で、「取引先に『うるさい』とどなられ、後進する際の警報音を切っていた」(毎日新聞)と供述した。バックの時は必ず警報音は鳴るものだと思っていたが、トラックなどでは、警報音を切る装置が付いているとのことだ。もし、警報音を切っていなければ事故は起きなかったかどうかは、今となっては検証のすべはないが、苦情を気にして警報音を切るということが、視覚障碍者の命の音とも言える情報入手の機会をなくすことだという認識が、一般的には共有されていなかったことは大変に重い事実である。「命の音が聞こえない!」とは、この事故をNHK徳島放送局が報道番組で特集した時のタイトルであり、副題は「視覚障碍者と盲導犬の死亡事故が問いかけるもの」となっていた。
2番めの事故は、音響信号機の案内音が切られた交差点で発生した。交差点に設置されている音響信号機は、近隣などからうるさいと苦情が寄せられると、深夜、早朝は音が鳴らないように設定される場合がある。現場の音響信号機も、午後7時から翌朝の8時まで音が止められており、事故の時、歩行者信号は赤だったという(設定時間は場所により異なる)。もし、音響信号機が普通に稼働し、青となっている方向を視覚障碍者が確実に理解できていれば、この事故は発生しなかった可能性は極めて高い。視覚障碍者の命の音と、うるさいという苦情、どちらが大事か改めて考えさせられる。
視覚障碍者と音の問題
以前、筆者の研究室で視覚障碍者の歩行事故について全国調査したことがあるが、過去5年間で何らかの事故を経験した人は約4割、この間に複数の事故を経験した人は2割、眼球破裂や骨折などの重大事故を経験した人も1割強に上った。これは音の情報がある場合の結果である。ここから音の情報が無くなればどうなるか、想像するだけで恐ろしい。視覚障碍者にとって聴覚による情報入手は正に死活問題である。視覚障碍者にとって音が消えれば、それは晴眼者がいきなりアイマスクをして道路を歩いてゆかなければならない状況と同じなのだ。如何に不安で危険かは自明であろう。その命の音が、単なる苦情というものだけで消え去りそうな社会状況を迎えているのである。
全国の信号のうち音響機能が付いたものは1割ほどしかない。視覚障碍者が地元の交差点に音響信号機を付けてくれるように行政にお願いしても、交差点付近の近隣の反対でなかなか付けられないという状況が報告されている。それどころではない。毎日新聞の調査によれば、全国の音響信号機で稼働時間の制限をしているのは何と84%に上ったという。完全に音が出ないように音響機能を停止している信号機も全国で9県、計37基あったという。停止した理由はもちろん、近隣住民からの騒音に対する苦情や夜間は停止してほしいという要望によるものだ。
このような状況に対し、警察庁では新たな取り組みを行っている。「高度化PICS」(PICS : Pedestrian Information and Communication System、歩行者等支援情報通信システム)というシステムの導入であり、歩行者の持つスマホと信号機をブルートゥースで繋ぐシステムであり、「信GO!」というスマホアプリをダウンロードしておけば、交差点に近づくと信号の色や方向、切り替わりなどの情報を音声で伝えてくれるシステムである。1基当たりの導入費は約200万円ほどかかるが、警察庁は、「今後、導入を進めるので、安心して横断してもらいたい」としている。視覚障碍者側の意見では、スマホやブルートゥースなどに不慣れな人も多く、やはり音響信号機の音を鳴らしてほしいという意見が多いようだが、問題なのは苦情があると音を止めてしまうという対応方法である。
問題なのは、騒音苦情に対する対処の形
話は変わるが、10年ほど前から無音盆踊りというのが始まった。盆踊りに対して近所から騒音苦情がきた為、対応策としてスピーカーで音楽を流さず、FMの送信機で音楽を電波として飛ばし、踊り手はイヤホーンでそれを受取って踊るというものである。音が出ないので騒音苦情に対応できるだけでなく、周波数を変えれば、年配者向けには「炭坑節」、子供向けには「おどるポンポコリン」と分けて踊ることもできるそうで、参加者も増えているという。また、電波は100mほど飛ばすことができるので、会場から離れて「一人盆踊り」も可能ということだ。
毎年、暮も押し詰まってくると、決まって除夜の鐘の騒音問題がテレビや新聞で取り上げられる。騒音苦情で除夜の鐘を中止にしたことが最初に話題となったのは、静岡県にある真言大谷派の寺院だと思うが、2年ほど除夜の鐘を中止していたものの、檀家や他の住民から復活の要望もあったことから、夕方から鐘をつく「徐夕の鐘」として再開したという。その結果、苦情も収まり、参拝者も増えて、災い転じて福と為ったそうである。これは盆踊りと同様の話であり、うまく対処したように見えるが、何かおかしいと感じないだろうか。
苦情社会という言葉を作って、本のタイトル(「苦情社会の騒音トラブル学」、新曜社)にも用いているが、今では、これまで苦情対象にならなかった様々なことに苦情が寄せられる。保育園での子どもの声やペットの鳴き声への苦情は当たり前、祭りのお囃子の稽古も時間制限を余儀なくされ、筆者の住む八戸では長年続いた朝市も騒音や車の問題で廃止になった。皆の楽しみにしている花火大会でさえ今や苦情の対象である。夏には田んぼの蛙の声がうるさいので何とかしろと市役所に電話がかかり、群馬県の北軽井沢では、速度の抑制と地元のアピールのためにメロディー道路(適切な速度で走ると、路面の溝によって走行音が曲に聞こえる仕組みの道路)を造ったところ、別荘地の住民からうるさいと苦情が寄せられ、わずか1年ちょっとで撤去する羽目になったそうだ。メロディー道路への苦情は分からないでもないが、今や騒音苦情は際限なく広がっている。
不要な騒音に対して苦情を言って無くしてゆくというのは特に問題はない。問題なのは、必要なものや、どうしようもないもの、特に迷惑とは考えられないものにまで苦情が寄せられ、その結果、必要なものが無くなるという状況である。その典型的な例が視覚障碍者のための音の問題である。視覚障碍者にとっては、音は最大の情報源であり、安全な歩行や行動の基本となるものだ。ところが、そんなことはお構いなしに騒音苦情が寄せられている。福岡市の西日本鉄道のバス停では、バス待ちの視覚障碍者に行先を知らせる録音テープの再生音を車外アナウンスとして流していたが、バス停近隣の住民からうるさいという苦情があり、それ以来中止されたそうだ。バスであるから深夜に流されることはないであろうし、音の大きさもバス待ちの人が対象なのでそんなに大きいとは思えない。視覚障碍者が一人でバス待ちをしている状況を考えれば、この案内音の必要性は誰でもわかるはずであるが、それにも拘らずバス会社に苦情が寄せられる時代である。市役所などの玄関に取付けられている誘導チャイムも今は当然検知式だが、それでも騒音苦情は寄せられる。バリアフリーやユニバーサルデザインを目指す社会に逆行して、人のことなどどうでも良い、うるさいものはうるさい、という人が増えてきているのである。
うるさいと思うかどうかは、その音にフラストレーションを感じるかどうかである。そのフラストレーションの原因の多くは自分の心の問題であり、迷惑行為などではない場合も多い。当然、苦情者の数も多くはなく、個人的な苦情だ。これは、騒音問題ではなく煩音問題であり、このような場合には、苦情者に対する煩音対応、すなわち心理的な要素を含めた個別的な対応が必要となる。しかし、そのような苦情に対してでも、取り敢えず原因となる音を止めてしまう対応がなされ、その風潮が社会的に定着してきているように感じる。除夜の鐘を除夕の鐘に、盆踊りを無音盆踊りに、音響信号機の音を止めて高度化PICSに、本当にこのような対応でいいのだろうか。音か苦情か、うるさいのはどっちかをよく判断して対応する必要がある。