騒音という言葉の歴史を辿ると日本人の騒音感が見えてくる、なぜ日本人はこんなに変わってしまったのか
日本における騒音に対する意識の変遷を辿ってみよう。ここでは、様々な時代の著作物を調べながら、当時の人が持っていた騒音感、あるいは音に関する印象を明らかにし、その時代的変容を考察する。
(本内容は、筆者著「苦情社会の騒音トラブル学」の一部を再構成したものである)
明治の騒音感
夏目漱石(1867-1916)の著作に「カーライル博物館」(1905年)という小文がある。樋口覚がその著「雑音考-思想としての転居」で着目したように、この漱石の作品は日本人の騒音感を考える上で大変重要であり、騒音の歴史の観点からまずこの文章を取り上げる。
「カーライル博物館」は、漱石がロンドン留学中にトーマス・カーライル(スコットランドの評論家、1795-1881)の邸宅跡を訪れた時の印象を表したエッセーである。その中に、次のような文章が出てくる。他にもあるが2箇所ほど抜き出して紹介する。
① 『カーライルは何のためにこの天に近き一室の経営に苦心したか。彼は彼の文章の示すごとく電光的の人であった。彼の癇癖は、彼の身辺を囲繞して無遠慮に起る音響を、無心に聞き流して著作に耽るの余裕を与えなかったと見える。洋琴(ピアノ)の声、犬の声、鶏の声、鸚鵡の声、いっさいの声はことごとく彼の鋭敏なる神経を刺激して懊悩やむ能わざらしめたる極、ついに彼をして天に最も近く、人にもっとも遠ざかれる住居を、この四階の天井裏に求めしめたのである。』(下線は著者注、一部読点追加、以下同じ)
② 『天上に在って音響を厭いたる彼は、地下に入っても沈黙を愛したるものか。』
これらの文章の内容から分かるように、下線を引いた「音響」という部分は、現在なら「騒音」と置き換えてもよい言葉である。しかし、この小文の中には、騒音と言う言葉は一切用いられていない。その他、筆者がかなり詳細に調べた範囲において、漱石の著作にはやはり騒音と言う言葉は出てこないのである。彼の著作の中では、現在の騒音を意味する言葉の部分には、上記した「音響」や「物音」、あるいは「雑音」と言う言葉が用いられている。
漱石だけではない。明治の文豪達の作品においても騒音という言葉はでてこない。森鴎外(1862-1922)の「阿部一族」、「ヰタ・セクスアリスイ」、「舞姫」、その他数々の著作にもなく、「普請中」(1910年、明治43年)という小文でも、騒音ではなく「騒がしい物音がする」と表現されている。幸田露伴(1867-1947)の「五重塔」は宮大工の話なので、様々な多くの音についての記述が出てくるが、ついぞ騒音は出てこない。その他、二葉亭四迷(1864-1909)、樋口一葉(1872-1896)らも同様であり、全く騒音という言葉は見つからない。これらを十分な状況証拠として捉えるなら、この時代には騒音という言葉がまだ存在していなかったのではないかということが考えられる。
漱石は、1900年(明治33年)から2年間イギリスに留学をしており、その折、カーライルが騒音に対して極度に神経質であったことに注目した。田舎からロンドンへ移ったカーライルは、街中を探しに探して現在は博物館となっている居宅を見つける。そして、様々な騒音を嫌って4階の天井裏部屋に住まい、そこに2重壁などの防音を施して著作活動を行ったのである(上記①の記述)。漱石はその部屋に実際に入り、窓からロンドンの街を眺めて感慨を深くし「カーライル博物館」を書いた。
これらの文から、イギリスに留学した漱石の中には、すでに騒音というものの概念は存在しており、騒音に悩まされる感覚を理解していたと考えられる。しかし、そのような感性は当時まだ異端であり、その概念を表す騒音と言う言葉すら存在していなかった。そこで、音響または雑音と言う言葉でこれを表していたことになる。漱石の騒音に対する概念(これを持ったのは漱石が日本で始めてかも知れない)は、西洋に留学すればこそ持ちえたものと考えられ、騒音の用語もない明治の一般社会を考えれば、現在のような迷惑感を伴った明確な騒音意識は、まだ市井にはなかったのではないかと考えられる。
江戸時代の音感覚
明治期に漱石のような先駆的なごく一部の人に、ようやく騒音感が芽生え始めたと言うことは、江戸時代の庶民には現代のような騒音感が全くなかったと考えてよいであろう。現在の騒音の定義は、邪魔な音、不快な音、不要な音ということになるが、音自体に対するこのような否定的な意識がなく、ごく自然に、声や音響や物音をあるがままに受け入れていたのではないだろうか。否定的な意識がなければ、音の発生者や発生源に対する怒りや憤りも発生せず、騒音を原因とした争いも起きては来ない。
大きな音がすればうるさいというのが現代人の常識であるが、それは決して普遍的なものではない。日本のある時期、いや、現代の100年程の期間を除いた殆どの時代には、例え大きな音がしていても、日本人はそれをことさらうるさいとは感じなかったのである。勿論、全員がそのようであったとは考えられないが、一般庶民はそのような感性を持っていたと考えられる。これは現代から振り返れば正に驚異的なことであり、当時の外国から見ても特異な国民性に写ったはずである。
昔の宿屋などは、宿泊場所は襖や障子で区切られており、音は筒抜けである。遮音の考えなどは何処にも見当たらない。明治の初めに日本を旅して「日本奥地紀行」を記したイザベラ・バード(1831-1904)も、日光へ向かう途中の栃木という町の宿屋で、隣の部屋で芸者をあげて琴や三味線、太鼓や鼓をかき鳴らして朝方近くまで騒ぐ客たちを、真に悪魔的であると罵っている。しかし、このようなことが日常的に行われていたことから分かるように、日本人はごく当たり前のこととしてこれを受け入れ、だれも怒りを顕わにする者など当時いなかったのである。上記の記述は明治の初めであるが、江戸時代も庶民の感覚は全く同様であったろう。
「日本の住居は木と紙でできている」とはよく言われることであるが、千数百年もの間、このような住居で暮らしてきたため、建物の持つ遮音性能などという概念を持ち得なかった。壁といっても薄い板張りか竹小舞に土壁であり、間仕切りは襖や障子である。これらは視覚を遮るだけで、聴覚を遮るという概念がないのである。江戸の棟割長屋では、3方の壁が隣りと接しており、その壁も薄っぺらい板壁か土壁である。隣りの生活音や夫婦喧嘩が筒抜けの環境であるが、誰もその音を迷惑とは考えていなかった。音が聞こえるのは当たり前でお互い様だったため、音がうるさいと揉め事になることはなかったのである。落語などでよく聞かれるフレーズであるが、「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」であり、長屋に住まう人達は各々子供同士、いわば兄弟のようなものである。生活自体も便所や井戸が共同であり、家族共同体のような暮らしがあったのだ。遮音性のない建物で暮らすことが、共同体の連帯感を高めて揉め事を押さえる効果をもたらしていたのである。
片や、西洋では古代から建物の遮音性能は常に確保されてきた。遥かローマ時代にも、「インスラ」と呼ばれる4~6階建ての賃貸集合住宅が存在し、その壁厚は80cmを越すものもあったという。壁厚が厚いのは構造的な理由からであり遮音を意図したものではないが、造りは石積み、レンガ積みであり、隣家の音が聞こえることはなかったであろう。このような住居では遮音の問題は自然と解消され、それが当たり前の環境の中で生活してきた歴史がある人々にとっては、他人の騒音に対して大変厳しくなるのは当然であり、その典型的な国民の例がドイツ人ではないかと思う。ドイツのアパートでは、時間帯によって洗濯機の使用やシャワーを浴びることも禁止されているし、休日に芝刈りなどの音を出す作業をすることや犬の鳴き声も規制されている。このように他人の騒音を厳しく律するドイツの風潮は今に始まったことではなく、昔からの国民性であると考えられる。その例証として、ドイツの哲学者、カントやショーペンハウエルの逸話がある。彼らは大変に騒音に関心を持っていた、いや、騒音に対して激しい嫌悪感を持っていたという方が正しいであろう。
カント(1724~1804)は几帳面な性格で知られ、散歩のコースや時間も規則正しく守られていたため、散歩の通り道の人がカントの姿を見て時計の遅れを直したというのは有名な逸話である。そのような性格であるから、騒音に敏感になるのも首肯できることではある。そのカントは、生涯のうちに6回家を変えているが、それは殆ど騒音のためであったと言われている。孟母三遷というが、その倍の転居を騒音のために繰り返したのである。最初は、下宿先の教授の家から引っ越し、川沿いの家を借りた。しかし、行き交う船の音や道路の馬車の音に苦しめられ、次に、書店主の家の屋根裏部屋に引っ越した。屋根裏の静かな環境で、思索と読書と著述に専念しようとしたのである。しかし、そこで待っていたのは隣家が中庭で飼う雄鶏のけたたましい鳴き声であった。やむなく、カントはその鶏を家主からすべて買い取るという申し出をするが、足元を見た家主が売値を吊り上げたため交渉は失敗に終わり、また引っ越すことになった。その後、二度ほど引越しを繰り返したが満足な環境が得られず、遂に、閑静な住宅街に初めて家を建てることにした。しかし、そこにも思わぬ騒音が待ち構えていた。近くには監獄があったが、なんと、そこの囚人たちが毎日のように歌うのである。その歌声が監獄から自宅にまで届き、哲学的思索どころではなくなってしまった。なんとか歌をやめてもらおうと警視総監にまで手紙を送り、監獄の窓を閉めてもらうことにはなったが、それでも敏感になったカントの耳に歌声は届き、生活を悩ませ続けたと言うことである。その後の経過は不明であるが、動物の鳴き声、人の歌声、車の音、まさに近隣騒音に悩まされ続けた人生であった。思索を糧とする哲学者ならではの感性もあるだろうが、ドイツ人の国民性としての要素も大きいと思われる。なぜなら、フランス人哲学者デカルトにはそのような話は残っていないからである。
同じくドイツ人哲学者のショペンハウエル(1788~1860)も騒音に対して大変過敏であった。彼は「騒音と雑音について」という著述の中で、カント以外にも、ゲーテ、リヒテンブルグ、ジャン・パウエルなどの偉大な作家達の著述の中に「騒音が思索する人たちに与える苦痛についての愁訴」が見られると述べ、苦痛を感じない者たちを、全てについて無感覚な連中と切り捨てている。ショーペンハウエルが特に忌み嫌ったのが馬の鞭の音であり、彼はこれを「地獄の物音」と呼んだ。その過激な文章を紹介しておこう。
『わたしは最も無責任かつ破廉恥な雑音として、都会の狭い通りにひびきわたる真に地獄の物音、鞭の音を告発せざるをえない。これは人生からあらゆる静寂と思慮をとりあげる雑音だ。鞭をならすのが天下ごめんであるということほど、人類の愚鈍と無思慮についての明確な概念を私に与えるものはない。』
また、その騒音の影響については、
『思想家の瞑想を断ち切ることは、あたかも斬首の剣が頭と胴体を分かつように、致命的なものがある。いかなる音でも、このいまわしい鞭の音ほど、鋭く頭脳を切断するものはない。』
とまで述べている。いかにも騒音に対する憎しみが溢れ出た文章である。そして、この著作ののち数年たった1858年には、ドイツのニュールンベルグで無用な鞭打ちや余計な騒音を出さないための騒音防止条例が出されたということである。今ならさしずめ車のクラクション音の防止法というところであろうが、当時、日本はまだ江戸時代の末期であり、騒音を取り締まるという発想どころか、騒音という概念さえ全く無かった頃である。西洋の騒音に対する意識と日本人の意識の差に驚かされるが、このような西洋人から見れば、他人の騒音など全く気にしない日本人の国民性はすこぶる奇異に映ったことであろう。
明治の前半以前から江戸時代、およびそれ以前の時代において、日本人が他人からの音に関して極めて寛容であり、それを非難するという概念自体を保持していなかったということは、日本人の特筆すべき国民性であり、日本の長い歴史の中でそのような感性を持ち続けてきたという事実は理解しておく必要がある。
大正での騒音の出現
話を明治に戻し、そこから現代に至る変化を辿ってみよう。明治には騒音という言葉は見られなかったが、時代が大正から昭和に移る頃になると、騒音という言葉が色々な所にあらわれてくる。この言葉が本格的に一般に使用されるのは昭和初期からと考えられるが、すぐに定着したわけではない。
大正3年(1914年)の「白樺」に発表された有島武郎の文章には、
『感情の激昂から彼の胸は大波のやうに高低して、喉は笛のやうに鳴るかと思ふ程燥き果て、耳を聾返へらすばかりな内部の噪音に阻まれて、子供の声などは一語も聞こえはしなかつた。』
とあるように、発音は同じであるが、ここでは騒音ではなく噪音という言葉が使われている。
また、久米正雄が「新思潮」に発表した「父の死」(大正5年、1916年)という文章でも、
『葬列は町を出て田圃道にさしかゝつた。行手には大きな寺の屋根が見えた。そしてそこからは噪音の中に、寂びを含んだ鐘の音が静かに流れて来た。私は口の中で「ぢやらんぽうん」と真似をして見た。併し実際はさう鳴つてはゐなかつた。』
と出てくる。更に、前出のショーペンハウエルの著作も、古い翻訳では「噪音と雑音について」と記されており、これらから、大正時代の一時期には、「騒音」ではなく「噪音」という言葉の過渡期があったようである。噪音という言葉は、この時期以後も人によっては時々文章の中に現れるが、「噪音」以前に「騒音」が使われているのは見当たらないため、「噪音」がいつしか「騒音」という言葉に置き換わってきたものと考えられる。(なお現在、ピッチの明確でない衝撃性の音などを噪音 (unpitched sound)と呼ぶ音響技術者もいるようであるが一般的ではない。)
そして大正時代の終わりになると、「騒音」が現れる。文芸春秋の巻頭を飾った芥川龍之介の「侏儒の言葉」(大正12~13年、1923~24年)の中の「芸術」の項に、
『東禅寺に浪士の襲撃を受けた英吉利の特命全権公使サア・ルサアフォオド・オルコックは、我我日本人の音楽にも騒音を感ずる許りだった。』
との騒音の記述が出てくる。また、宮本百合子の「小景、-ふるき市街の回想-」(大正12年、1923年)や「この夏」(大正14年、1925年)にも騒音が出てくる。後者の文章は、
『これは、愚にもつかないふざけだが、やかましさで苦しむ苦しさは持続的で、頭を疲らせた。暑気が加わると、騒音はなおこたえた。私は困ったと思いながら、それなり祖母の埋骨式に旅立ったのであった。』
というものであり、騒音という言葉のこのような使われ方は、現代の場合と全く同じで何ら違いはない。
これらより、騒音という言葉が使われだしたのは、大正10年頃から14年の間ぐらいに狭められる。この時期に何かの書物とか新聞などで「騒音」という言葉が新語として使われ、それが爆発的に流行したというような記録は見当たらないため、当時の何らかの社会的状況をきっかけにして騒音という言葉が自然発生的に現れ、その影響度が増して一般市民の中でも盛んに使われるようになってきたと考えられる。
そこで気がついたのが、大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災である。東京、横浜を中心にして千葉から静岡近辺までの広範囲に亘る日本中枢部分が壊滅的な打撃を受けた地震であり、死者10万人強、建物の倒壊焼失40万棟以上(何れも現在定説)と言われる未曾有の大災害である。すぐさま、帝都復興の大事業が被害地各所で始まり、建物の復旧や建て替えは勿論、道路の拡張や区画整理などのインフラ整備まで、各所で様々な建設工事の槌音が鳴り響くことになった。
ここからは推論であるが、この関東大震災のこれまで類を見ないような大規模広範囲な復興工事が騒音という言葉の出現と定着に大きく寄与したのではないだろうか。至る所で工事の物音が洪水のように押し寄せ、東京、横浜などは何処へ行ってもさぞかしうるさかったことであろう。そのような音の環境では、「騒がしい物音」などといった悠長な表現では物足らず、もっと端的な表現である「騒音」という用語の発生に自然と繋がって言ったのではないだろうか。時期的にも、大正10年から14年ぐらいの間という条件に見事に一致する。誰が最初に使ったのかは分からないが、まだ一般的ではなかった「噪音」という言葉をベースとして、関東大震災の復興の槌音の中で、正に実態をつぶさに表す「騒音」という用語に生まれ変わったことが推察される。すなわち、関東大震災が日本人に騒音感を植えつけたと言ってよいのではないだろうか。
昭和での騒音の定着
大正から年号が変わり昭和5、6年位になると、騒音という言葉は一般的な用語として、しっかりと社会に定着してくる。この頃になると、騒音を用いた著作や研究報告などが見られ、例えば、早稲田建築学報の第8号(昭和5年、1930年)には、佐藤武夫により「地下鉄道内の騒音」という論文も発表されている。我が国の騒音研究、音響研究を牽引した早稲田グループの初期の論文であり、ここでの騒音は当然、現在の用語と何ら変わりはない。
また、「虚しき騒音」(山野苳樹、早川伝三郎著、昭和6年、1931年)などのタイトルにも用いられ、文章内でも江戸時代を舞台にした「丹下左膳」(昭和8、9年作)にさえ「巷の騒音」などと用いられるなど、一般化の傾向が明らかとなっている。昭和10年代以降は、この時期の著作の多くにごく普通に現れ、その状況は現在と何ら変わりはないものとなっている。
ただ、昭和の時代の騒音感は、やはり現代に見られるような騒音を過敏に排除しようとする風潮とはやや異なり、まだまだ温和な対応の様子が垣間見られる。そのような文章例を紹介しておこう。
『近頃は警視庁なんかでも、騒音ということを非常に喧ましく取締っているようだが、また事実騒音も聞き方によっては非常に癪に障るものであるが、しかし音の世界に生きる私どもは、波の音を聞く感じを以て電車の音を聞く時、街の騒音にもそこに一脈の愛しさを覚えずにはいられないのである。
やがては、誰しも騒音も何も聞こえぬ所へ行かねばならぬのだから、せめて生きている間は、騒音でも何でも聞こえることに感謝しなければならぬと思う。
それが、音の世界に生きる私共の――少くとも私の「こころ」である。』(宮城道雄、「夢乃姿」より、「音の世界に生きる」、昭和31年、1956年刊)
『私の隣の家では、朝から夜中まで、ラジオをかけっぱなしで、甚だ、うるさく、私は、自分の小説の不出来を、そのせいだと思っていたのだが、それは間違いで、此の騒音の障害をこそ私の芸術の名誉ある踏切台としなければならなかったのである。ラジオの騒音は決して文学を毒するものでは無かったのである。』(太宰治「もの思う葦」、より「鬱屈禍」、昭和55年、1980年刊)
このような余裕あるスタンスは現代の私たちにも必要ではないだろうか。現代人は、騒音に対してすこし過敏になりすぎている嫌いがある。
近現代の騒音に関する変遷をまとめると下表となる。騒音の変化は、人間の音に対する感覚の変化に他ならず、このように全体を眺めると人間の感覚史としても興味深い。表の最後は昭和時代の「騒音の用語が定着」であるが、その続きを作成するとするなら、現代の騒音状況を何とまとめればよいのであろうか。騒音で殺人までが起こる時代を迎え、あまりにも急激なその変化に言葉を失う思いである。