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石原さとみを生かす男優と殺す男優の差 『恋はDeepに』の共演・綾野剛が見せた安定感

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:ロイター/アフロ)

「おとぎ話」ドラマだった『恋はDeepに』

石原さとみ主演の『恋はDeepに』は不思議なドラマだった。

(以下、ドラマ内容のネタバレをしています。ネタを知っていたほうが楽しめるのではないかというスタンスで書いていますが、ネタバレそのものを嫌う人もいるだろうから、御注意まで)。

ふつうの恋愛ドラマのような始まりだったが、じつは「おとぎ話」であった。

言い方を変えればファンタジーである。でも、出てくるのはマーメイドではなくて純日本風の人魚のようだったので、「おとぎ話」としていいだろう。

石原さとみが演じる“渚海音(なぎさ みお)”は海洋生物の化身らしく、最初からその暗示はあった。

魚の言葉がわかったり、そこそこ深い海の底へ素で潜っていけるなど、不思議な力を持っていた。ただそれは特殊能力かもしれず、序盤のうちは、その正体は明らかにされずに進んでいった。

そこがかなり中途半端ではあった。ドラマとしては残念なところである。

そして、最後まで彼女の正体は明確には言葉にはされない。

「私は人間じゃないの」というのは第4話の終わりに告白し、おそらく「海洋生物の化身なのだ」ということまではわかるが、では何者かというのは明らかではない。

いつもウツボと話していたから、ひょっとしたらウツボ系統の化身なのかともおもったことがあったが、そういうことではないらしい。あのウツボは『リトルマーメイド』でいえば、アリエル姫のお付きの(見張り番の)カニのセバスチャンのような役目だったようである。

人魚との別れを読んでショックを受けるヒロイン

7話で(最終話の2つ前)、「しおさい博物館」に寄ったおり、渚海音は展示してある『人魚との別れ』のお話と、人魚の絵を見てとても驚いている。

そこには、およそ四百年前の人魚伝説について展示されていた。(文久年間の日記に三百年前の伝説として書かれていたという設定なので、厳密にいうなら四百五十年ほど前)。

「地上にとどまった人魚は人間を不幸にしてしまう」という文言にショックを受け、これを見て、彼女は早々に海に帰る決意を固めたようだ。

この博物館に飾られている「人魚」の絵は、日本らしい“長い黒髪の人魚”であり、幽霊の絵のようにも見えて、少し不気味でもあった。

彼女が「人魚伝説を読んでショックを受けている」という描写はあったが、彼女は、自分が人魚である、とはいちども語っていない。人魚に似た別の存在かも知れない。魚人かもしれない。そこは明らかではない。

「うろこ」なのか「花びら」なのか判然としない

人魚と人間の大きな違いは「足」であり、ディズニー映画『リトルマーメイド』でも主人公のアリエルは「足」を持つことにずっと憧れていた。

この博物館でショックを受けたあと、彼女は海に戻ろうとして、海に足を浸けるのだが「戻れない」と哀しみ、気を失ってしまう。

倫太郎(綾野剛)が駆けつけると、足の骨が海洋生物ぽく変わったうえで、「うろこ」のようなものが出てきた。

でもどこまでも「うろこのようなもの」でしかなく、花びらぽく美しく描写されていたので、正体はわからない。

7話で、「人魚ないしはそれに準ずるもの」という正体は暗示されたが、そこまでしか描かれていない。(自分で書いてて、準ずるものって何だろうとおもうけど、まあ、人間に化身できる人魚、つまり足が生える人魚というのは、人魚世界でも正統な人魚ではないかもしれず、何かまあそのあたりの生物ということである)。

人類の物語の祖型「人と、人ならざるものとの悲恋の物語」

7話ラストで、「人魚(らしきもの)と人間の悲恋」とはっきりとわかったところで、お話は一挙に「昔ながらに語りつがれるせつない物語」へと変身していく。

最後2話の展開は、なかなかよかった。

あまり多くの人にドラマとしてはプラスに評価されないかもしれないとはおもうのだが、ドラマの中の石原さとみを眺めているぶんとしては、心地いい展開であった。

おとぎ話という「人類の物語の祖型」に戻ることによって、きちんとしたラブロマンスに仕上がっていた。

ただ、見ているほうに「これは、あくまで、おとぎ話だから」という覚悟ができていないと、ついていけない展開でもある。

あり得ないとおもったら、ついていけないだろう。もちろん、あり得る、とおもう必要はないし、まあ、アリエルでさえもないのだけれど、「おとぎ話なんだ」とおもって見られないと、かなり置いてきぼりになる展開でもあった。

ちょっとそのあたりの仕掛けが面倒なドラマだったともいえる。

綾野剛にはおとぎ話の登場人物がとても似合う

「おとぎ話」として見れば、石原さとみのおもいつめたときの表情から、いかにも「化身」という風情を感じられる。

そして相手役が綾野剛だったのが「おとぎ話」ではとても効いてくる。

綾野剛は、最初は大企業の御曹司として登場するので、いわば「いやな感じのプリンス」という役どころであった。

それが、自分が恋している相手が「海の生き物の化身」と知ってから、ずいぶん気配が変わってくる。

素直な存在になる。

いわば「海の男」というような頼りがいのある風情を感じられるのだ。

海の男といっても、田舎の鄙びた海の男という感じで、まあ、浦島太郎とか、つるに恩返しされるよひょうとか、そういうのに近い風情である。

あまりプリンスではない。海の若大将でもないし、湘南に吹く風でもない。

土くささというか、潮風くささ、磯くささを身に纏っている男らしさが出てくる。

そういう「おとぎ話」的な雰囲気が、綾野剛はとても合う。

人でないものと恋した結末

第9話(いちおう最終話)は、ついに「化身」(石原さとみ)は海に帰るということになる。

このあたりは、「かぐや姫」が月に帰るためまわりがじたばたする雰囲気に近い。

「化身と人間の恋」というファンタジーでも、惹かれあう男女の姿は、演者の力次第で見る者を引き込んでいく。

海の姫(のようなもの)・石原さとみと、鄙の海の男(のようなもの)・綾瀬剛の別れは、心惹かれる展開を見せた。

おとぎ話らしい切ない別れの展開であり、「人でないものと恋した結末」が、すっと胸のうちに入ってくる。

おとぎ話だから、化身の説明はまったくない

しかも物語はそこで終わらない。

そういえば、石原さとみ演じる「化身」は、いったいどうやって人の形になったのか、いったん海に戻ったら戻りっぱなしなのか、そのへんは何の説明もなかった。おとぎ話だから、まあ、それでいいのである。

別れのあと、三年たち、その三年後のシーンが少しだけ流された。

おとぎ話として「めでたし、めでたし」とつけていいようなラストシーンであった。

最終9話のあと、もう1回、空白期間を埋める物語があるようだが、変則の第10話めということなのだろう。

「引き気味のプリンセス」としての石原さとみの魅力

石原さとみは、ひさしぶりに恋愛ドラマでしっくりした役を演じているように感じられた。ラスト2話で、とくにそうおもった。

このドラマの世評が高いかどうかはわからないが(なかなか見方がむずかしかったとおもう)、石原さとみは、少し何かを抱えた「引き気味のプリンセス」が似合う。

相手役が綾野剛だったということもあるだろう。

綾野剛は、親しみやすいが、屹立している。

寄り添って相手を引き立ててくれるが、また一人でいる姿も魅力的である。

味わい深い。

石原さとみの相手役として、彼女の魅力を存分に引き出していた。

そして、かれもかっこよかった。

石原さとみを生かす男優とそうでない男優

ドラマの主役をもう10年以上続けている石原さとみは、共演者によってより輝くときもあれば、そうでないこともある。

20年ほどさかのぼると、2003年朝ドラ『てるてる家族』、2005年大河『義経』への出演があり、それぞれ相手役は錦戸亮、滝沢秀明だったが、そこまでさかのぼることはないだろう。

ここ10年のドラマで、石原さとみと組んで特によかったとおもうのは『リッチマン、プアウーマン』の小栗旬である。この二人のコンビは、基本、コミカルで軽快であった。

立場の差があり、その逆転があり、せつない恋心を描いて秀逸であった。

ドラマとしては松本潤との『失恋ショコラティエ』や、山下智久『5時から9時まで〜私に恋したお坊さん〜』なども恋愛ものとしていい作品だった。

ただ、ドラマ全体のイメージとして見終わったあと(ないしはずいぶん時間経ってからおもいだしてみると)石原さとみより先に共演者(松本潤や山下智久)のほうを、おもい浮かべてしまう。

彼らのドラマだというイメージが強い。

また美女と野獣的な組み合わせだった『高嶺の花』での峯田和伸との共演もなかなか見ものだったのだが、その組み合わせはやはり恋愛ものとしてのせつなさが少し物足りなかった。(峯田和伸のせつなさはすごく伝わるが、石原さとみのせつなさはそこまで伝わってこなかった)。

小栗旬や綾野剛。

こういう人と組むと、かなり石原さとみは輝くとおもう。

(2010年代には石原さとみ主演ドラマは多数あるのだが『アンナチュラル』のようなお仕事もの、事件ものでは、あまり恋愛的せつなさは描かれないので触れない)。

石原さとみを堪能できた『恋はDeepに』

その石原さとみが、『恋はDeepに』で久しぶりにみせた「せつない恋愛」は、かなり奇妙な設定のおとぎ話だったけれど、でも、ぞんぶんに「恋愛モードの石原さとみ」が堪能できる作品であった。

石原さとみの愛らしい姿がたくさん見られた。

相手役が綾野剛だったからだろう。

前半はずっと「何の話なんだろうこれは」と疑問だらけだった物語は、最後になってきちんと方向性が定まって、ラストは忘れがたいシーンとなった。

たぶん、名作ドラマと呼ばれることはないだろうが、でも、心にじゅうぶんな引っ掛かりを残してくれたドラマでもあった。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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