「鎌倉殿の13人」の一人、文武に秀でていた梶原景時と梶原氏のルーツ
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、中村獅童演じる梶原景時が、鎌倉武士達の反頼朝的行動を調べ上げて報告する場面が何度か登場する。
景時が最初に登場した時は平家方の武士で、石橋山合戦で敗れてしとどの窟に隠れている源頼朝主従を見つけながら助けたシーンが話題になっていた。これはドラマ中の脚色ではなく、「吾妻鏡」にも書かれている史実である。この時の行動が縁で後に頼朝に仕えて、やがて鎌倉幕府内で大きな力を持つようになる。そして、全国の「梶原」さんの祖にあたる人物である。
梶原氏のルーツ
梶原景時は桓武平氏の武士で、鎌倉付近を本拠とした鎌倉党と呼ばれる武士団の一員で、名字の地は相模国鎌倉郡梶原郷(現在の神奈川県鎌倉市梶原)。梶原郷は鎌倉の中心部からみると北西の源氏山を越えた向こう側にあたり、今では郊外の住宅地となっている。ここには景時が創建したという御霊神社がある他、深沢小学校の裏手には景時の墓といわれる五輪塔もある。
景時は源平合戦では奉行として源範頼・義経軍を補佐、合戦の状況についての詳細を頼朝に報告して頼朝の信頼を得たが、義経とはしばしば対立したため、「平家物語」ではあまりよく描かれていない。
当時の武士としては事務処理能力に秀でていたらしく、平氏の滅亡後は平氏所領の没収など戦後処理を担当、鎌倉幕府成立後は侍所所司として大きな勢力を得た。
また、頼朝の命を受けて、幕府内で大きな勢力を持っていた上総広常を討つなど、文武に秀でた武士であった。
しかし頼朝の寵愛が厚い一方で他の武士とうまくいっていなかったことから、建久10年(1199)に頼朝が死去すると他の御家人達と激しく対立した。同年景時を糾弾する弾劾状が出されて失脚し、鎌倉を追放されて所領である相模国一宮(現在の神奈川県寒川町)に下向した。翌年一族を率いて上洛を試みるが、駿河国清見関(現在の静岡市清水区)で在地武士との合戦となって景時は自害、一族33人が討死した。
その後の梶原氏
江戸時代、歌舞伎で義経がヒーローとして描かれるようになると、しばしばその対立軸として梶原景時は「悪人」の役割を担わされた。実際には読み書きのできない武士も多かったといわれる坂東武士のなかで、事務能力にたけ、頼朝と和歌を交わすこともできる景時は、頼朝側近としてなくてはならない人物だった。
景時没後、梶原氏の家督は景時の弟の朝景が継いだが、まもなく和田合戦で討死して嫡流は滅亡した。しかし、戦国時代の小田原北条氏家臣の水軍衆に、景時の末裔と伝わる梶原氏がいたなど、一族は各地に広がっていた。
現在は、関東から山梨県にかけてと、瀬戸内海沿岸から九州北部にかけての2か所に多く、とくに山梨県・大分県・福岡県に集中している。なお、山梨県では「かじはら」が多い他、西日本でも「かじはら」と「かじわら」が混在している。